げじげじ日記

私の世界

幸福

午前中

縁側に出て、釣りに使うパイプ椅子を日陰のコンクリートに置いて、座って、太陽に照らされた畑を眺めている

苦瓜の壁の向こうからガサガサと人の動く音が聞こえる

誰かが畑に出ているのだろう

幸福、ということについておもう

誰も共有することのない幸福とは幸福なのだろうか?

幸福ということばは意味を持つのか?


野球中継を見ながらビールを飲むのが幸福だとは思わない

それは退屈しのぎ、という

冷房の効いた部屋でゲームをするのは幸福だろうか?

子どもの頃はそれが幸福だったが、今はそうは思わない

時が止まったようで

活気がなく

変化もないように見えるが

それは人間の社会の話だけであって

人間以外の動植物たちは

淡々と成長し、繁殖し、朽ちて、次の世代へと入れ替わっている

人間よりもよほど早い

人間だけを見て

「活気がない」
「変化がない」

と嘆くのは

変化のスピードが自分に合っていないからである

人間の変化のスピードとは

すなわち心の変化のスピードということになる

人間は自分の心の変化のスピードにもついていけなくなることがあり

結果自分の心を見失う


幸福とは

心の変化のスピードに何かがピッタリと合った時のことをいうのではないか

そのスピードは野球中継の変化を見るときのスピードよりは

動植物の変化を見るときのスピードに近い

スピードは速いとか遅いとかではなくて

間の感覚の広さだとおもう

階段を3段飛ばしでかけるのと 

1段ずつゆくことの違い

社会は人間に3段とばし4段とばしを要請するが

わたし個人の幸福は1段ずつ歩くことにある


ということしか今は言えない

この感覚がひとと共有できるかどうかは知らない


風の流れが弱まって

蝉の声が鳴り出し大きくなっていった