げじげじ日記

私の世界

野原

わたしは倒れた

うずくまった

もう、いい

ここに置いていってくれ

独りにさせてくれ

背後に忍びよる車

車はわたしを通り過ぎていった


ああ

何もかも手放したら

世界は鮮やかにみえる

なんだ

レースをしていたときは

土埃でよくみえなかったが

レーンの外には

野原が広がっているじゃないか

わたしはちらりと愛しい人々の背中をみたが

彼らはだんだん影となり

掛け声も消えていった

わたしは地面残された足跡をみて

目の前に広がる野原を眺めて

溜息をついた

ああ

こんなつまらないレース

一緒に抜け出してしまおうよ

といって

残ってくれる人がいればよかったのに

わたしは足跡を指でなぞって

匂いをかいだが

匂いはもうしなかった


野原では

別のレースが行われているのだろうか?

土の上に座り込んで

わたしはおもった

生活

生活は日々保たれる

生活して自分自身を保つ

体調と清潔と収入を保つ

一人で、または何人かで


生活はふつう定住しておこなう

規則正しいリズムで

生活は進行してゆく

そこには一種の満足感のようなものがある

炊事洗濯掃除を全て外部に委託して

生活するひともいるが

どんな形であれ

淡々と一定のリズムで進行してゆく時間

それが生活である


天変地異などの外部環境の変化がなければ

そのまま何年でも同じリズムで生きてゆける

未来の不安はない

それが生活といえる

未来に不安があるということは

生活の不足を意味する

生活に不足がなくなると

余裕が生まれ

生活に加えて何かをすることができる

それは生活のためのものではなく

無駄なものである


生活に余裕ができても

わたしには何もやりたいことはない

だから生活以外の時間は

寝るしかない

世界を理解したいとは思うが

別に知りたくないことを知ろうと思わない

知りたくないことは数多く

知りたいことは殆どない

世界のことは大部分理解ができない

知りたいことがないのは

おそらく触れる情報が少ないからだろう

しかし

それでしばらくは良い気がするので

特に態度を変えたりはしない

幸福

午前中

縁側に出て、釣りに使うパイプ椅子を日陰のコンクリートに置いて、座って、太陽に照らされた畑を眺めている

苦瓜の壁の向こうからガサガサと人の動く音が聞こえる

誰かが畑に出ているのだろう

幸福、ということについておもう

誰も共有することのない幸福とは幸福なのだろうか?

幸福ということばは意味を持つのか?


野球中継を見ながらビールを飲むのが幸福だとは思わない

それは退屈しのぎ、という

冷房の効いた部屋でゲームをするのは幸福だろうか?

子どもの頃はそれが幸福だったが、今はそうは思わない

時が止まったようで

活気がなく

変化もないように見えるが

それは人間の社会の話だけであって

人間以外の動植物たちは

淡々と成長し、繁殖し、朽ちて、次の世代へと入れ替わっている

人間よりもよほど早い

人間だけを見て

「活気がない」
「変化がない」

と嘆くのは

変化のスピードが自分に合っていないからである

人間の変化のスピードとは

すなわち心の変化のスピードということになる

人間は自分の心の変化のスピードにもついていけなくなることがあり

結果自分の心を見失う


幸福とは

心の変化のスピードに何かがピッタリと合った時のことをいうのではないか

そのスピードは野球中継の変化を見るときのスピードよりは

動植物の変化を見るときのスピードに近い

スピードは速いとか遅いとかではなくて

間の感覚の広さだとおもう

階段を3段飛ばしでかけるのと 

1段ずつゆくことの違い

社会は人間に3段とばし4段とばしを要請するが

わたし個人の幸福は1段ずつ歩くことにある


ということしか今は言えない

この感覚がひとと共有できるかどうかは知らない


風の流れが弱まって

蝉の声が鳴り出し大きくなっていった

心配と苦労

心配と苦労

というのがわたしの家の雰囲気だった

何か悪いことが起こるのではないかと心配し

起こらないようにと苦労をする

本当はやりたくないことをやる


自分のしているありとあらゆる思考が

「心配」と一言で言い表せてしまうことに気付いて

はっとした

わたしには

「心配」以外の思考がないのか

考えることは全て「心配」

行うことは全て「苦労」

さもしい


「嫌だなあ」と思うのも

何かを心配して思うことが多く

何かを感じて思っているわけではない


心配と苦労をやめようとおもった

心の中にあるもの

心の中に何かが詰まっている

それを感情、というらしい

何か、のままでは捉えられない

つらい

悲しい

嬉しい

と言葉をあてる

ピッタリあてられると楽になる

楽になるにはもう一つあって

心の底にある栓を抜いて

全部流して空にしてしまう

淀んできたらそのつど淡々と流してゆく

とにかく空っぽにしてしまう

頭も心も空っぽになったとき

からだが息づいているのがわかる

全てをわたしのからだが受け止めてくれている

空っぽになってはじめて

堂々巡りの苦悩や悲壮感はなくなり

さて、どうするか、と考え始める隙間が生まれる


心の中にあったものは

感情だけではなく

他人である

心の中に他人がいて

べらべらと何かを言う

それは自分の声ではない

他人を心の中から追い出せ

他人とは

わたしの心の外にあるもの

心の中にいる彼らは

厳密には他人でさえない

亡霊のようなもの

亡霊を追い出せ

そうすれば

心が軽くなる

労働

昼ごはんを食べて、ひとまず労働が終了した

独り者にとって飯は労働のようなものだ

単なるエネルギー補給に過ぎない

まずいものでなければ、の話だが


労働を

頭脳労働

感情労働

肉体労働

と分けるならば

頭脳労働が総じて賃金が高く

感情労働は様々な形が存在し

肉体労働は総じて賃金が安い

というのが現実だが

頭脳を使って労働をする、というのは

「考える」という行為を

他人の指し示す方向へ使うことで

考えたくもないことでも考えなければならない

頭脳労働とは

頭の中を売り飛ばしているのである

感情労働とは

心の中を売り飛ばしているのである

肉体労働とは

身体の動きを売り飛ばしているのである


賃金が高いほど、この

「売り飛ばしている」という感覚は希薄になるが

確実に頭の中の、心の中の、身体の動きの自由は

失われてゆく

ただ、自由を感じる能力もその内にあるから

気が付かないだけなのだ

感情労働が最も厄介なもので

表情や言葉や振る舞いによって

他人の機嫌を損ねないとか、

喜ばせるとか

気を使わなければ

仕事にならない


わたしが大学にいて強く感じたのは

頭脳労働希望者たちの

卑しさだった

物分りがよく

愚かさを持たないかれらは

賢い選択を繰り返し

最終的には社会を破滅させるように思えた

社会

少しずつ

癒えてゆくのだろう

わたしは


昔の夢をみた

そのころわたしは自分では気づかなかったが

精神的に参っていた

わたしの知り合った人々と

ある社会との交流

そこでは日本の社会らしく

真実や事実よりも

強いことが全てなのだった

強さとはある種の鈍感さである

結果的に

わたしは疲れ果てボロボロになった

それから癒えるということが始まった


そのころ

社会は人間を幸福にはしない、という

単純明白な真実に

わたしはなかなか気づかなかった

人は社会に捧げ物をする

時にそれは過剰になる

社会が自らに幸福をもたらすという

期待をして

だが、何かが物足りない

なぜか、と考えて

まだ捧げ物が不足しているか、と

捧げ物を増やしてみる

だが、物足りなさは変わらない

社会は常に捧げ物を必要としているから

捧げ物を増やせばそれだけ幸福になると

ささやく

社会に参加する以前の子ども時代には

幸福とは単純なものだ

ところが大人になると

自分の幸福と社会とを繋げようとして

失敗する

社会は人を不幸にすることがあるので

幸福にすることもあるのではないかと

思い込んでしまう

この手の思い込みは社会により更に補強される

「わたしは○○のおかげで幸福になりました」

という内容の嘘がいかに多いか

ひどい場合には

自分の参加している社会は人を幸福にすることはあっても、不幸にすることはありえないと本気で思い込んでいる人さえいる

こういう人は前述のような嘘をつき続けなくてはならないし

また他人にも嘘をつかせ続けなければならない

こうして社会は人を不幸にする


社会が人間を幸福にはしないのはなぜか

社会は自らを存続させるために

多かれ少なかれ人間に嘘を強要するからだ