げじげじ日記

私の世界

淡々と(その二)

ものごとを

やりたいか、やりたくないかで分けるんでなくて

やるか、やらないかを先に決めてしまう

直感でも経験でもいい

そして淡々とやる

もしくは淡々とやめる

淡々と生きることはわたしにとって

無条件に「よいこと」なのだ

たとえ悪事だろうと淡々とやるのはよいことであり

喜びである

心を空っぽにして淡々とできないことは

やめる

それはよいことではない

ひとを情熱的に愛することは辛いが

淡々と愛することは喜びである

わたしはとても静かな心を持っている

元気も情熱も意欲もない

凪のときの海のような

ならば、そのまま生きればよろしい

きっと、そういうことなのだ

身体

今感じている感情を言葉にするのはすごく難しい

悲しい、が近いのだが理由がない

身体の全ての出口が塞がって

内部の感覚が深くなる

外部のことは何もわたしの身体に干渉しない

過去のことを考えているわけでもない

未来のことを考えているわけでもない

何もかもどうでもよくなって

孤独も感じない

誰かと話したいとも思わない

眠くもない

自分はまるで一つの物体になったかのように

沈黙している

感情も思想もなく

本能もあるのかないのか分からない

心臓の鼓動はよく聞こえる

呼吸を深くしたら

力が抜けたようになって

気持ちがよくなった

心は落ち着いてある


ぼーっと机の上のコップにプリントされているアニメキャラの絵柄やボトルのラベルをみていると

文明が滅びた後の世界にいるような妙な心地になる

これらは文明から切り取られたモノであって

文明そのものではない

人間は退屈だから文明を作ったのだろう

退屈を受け入れなかった


わたしの身体と心は互いにそっぽを向いていて

腹は空いているのに食べる気にならない

眠くはないが起きる気がしない

ということがよくある

大抵心の方を優先して

身体は置き去りになる

身体が喜ぶことをしたい

悲しみ

腹の底に石が詰まったような 

悲しみがある

重くて重くて

立ち直る、なんてことは

到底思うこともできないくらい

落ち込んでいる


悲しみは

身体の静けさと

頭の中を支配している悲観的なイメージの

融合したもの

なんとかなるさと

楽観的になっても

何も起こらない

身体は静止している

なんとかなったところで

どうだというのか

失われたものは

戻ってはこない


立ち直る、癒える

という方向へ

目を向けることさえもできない

それは余りにも果てしなく遠いところにある

早くよくなりたい

そう望むものの

「よくなる」ということが

どういうことなのか

分からない

悪くなっていることは分かる

よくなることは分からない

だがわたしはよくなることを

即ちよいことをしなくてはならない


悲しみとは

よいことが一つも見つからないことなのだ

元気

街に出てみると

元気な人はあまりいない

大きな声を張り上げて

元気な声を作ったりして

元気なふりをしている人は大勢いる

元気なことではなく

元気に見せ掛けることが重要なのだ

元気がないものはガス室に送られる

そう脅されているかのように

元気なふりをする

新鮮な魚を選別するかのように

元気なニンゲンが選別される


わたしには元気がない

元気があった頃もあった

だが今は尽きたようだ

元気のない人は

元気な人を見て

元気を貰いたがる

自分が見て元気になるために

元気に見せ掛けることを要求する

御免こうむる

わたしは毅然とした態度で

それを拒絶しなければならない


おまえのそのままの元気のない姿を

堂々と

相手に見せつけてやれ

それがおまえにできる

唯一の抵抗なのだ

目が覚める

7時48分

眠った時間を計算する

よく眠ったほうだ

でも起きる気にならない

起きても起きなくても同じだ

やることはない

腹が減っていたら食べる

腹は減っていない

やりたいことも

やるべきこともない

ながいながい18時間かそこらを

どうやって埋めるか

眠ってしまって

スキップできたらいいのに

もう眠れない

なにかの為に起きたのではなく

勝手に目覚めたので

眠ろうと思っても眠れない

わたしは今日の18時間かそこらを

楽しむのではなく

悲しむことに使う

楽しむ?なにを?

なにも楽しめない

そのことが一層悲しみを生む

楽しみも悲しみもなく

淡々と生きられたら

なんといいことか

わたしはきっと人生が

楽しいものでなければいけないと

思っていて

一層つらくなるのだ

元気のない人間は

そんなにだめなのか

起きて

外に出てはいけないのか

熱狂

心には浅いところと深いところがあって

感情のほとんどは浅いところから生まれる

身体をぶるぶる震わせていようと

浅いところから生まれた熱狂は

何も生み出さない

終わったあとは

孤独感しか残らない

熱狂とは人の生の感性からくるものではなく

頭で作り上げた種々の概念からくる
雲のようなもので

やる気と意欲に満ちて
攻撃的になり
声は上ずり
人生をかけたりしてしまう

熱狂は過度の希望のあらわれで
鬱屈が過度の絶望のあらわれであるのと
対になっている

どちらも物語が現実認識の要になっている

物語が作り出せれば希望となり
物語が壊れれば絶望となる

物語とは
自分はこういう人間で
こういう思想で
こういう育ちで
こういう夢がある
といった一連のものだ 

これらは物語として自分の本来の欲求よりも
強く作用する可能性がある

また、常に壊れる危険性がある

しばしばこの物語を支えるのが
仲間や同志といった現実に存在する人間からなる
カテゴリーであり
お互いに熱狂から醒めないように
励まし合う

熱狂からは醒めなければならぬ

どんな物語を持っていようが
腹は減るし
ゴミは出るし
部屋は汚れる

これらは物語と無関係に起きる

めんどくさいなあ、嫌だなあ
と思うが

物語のせいではない

淡々とやる以外にない

熱狂でもってやることを
わたしは止めたのだから

淡々と

わたしのかつての姿をわたしは覚えている

何をしていたわけでもないのに
やる気と意欲に満ち溢れていた頃の姿

今のわたしは
やる気もなければ意欲もない
そのことを
受け入れられないでいる

覚醒剤の切れた気分というのは
こういうものなのだろうか

他人との比較は
10年も前に卒業した
次は自分との比較を卒業すべきか

すべきか、と言っていられるほど
悠長な話でもなく
もはやそうしなければ
生きることが難しい

やる気も意欲もないが
生きねばならぬ
淡々と
淡々と
それでも心はまだ死んではいない

やる気と意欲に満ち溢れ
雨に濡れるのも全く気にせず
一心不乱にやるわたし

やる気も意欲もない
雨に濡れるのも嫌だ
それでも淡々とやるわたし

前者のわたしはもはや戻ってはこない
あれは儚い夢だったのだ

後者のわたしは
そんなに悪いものなのか
それはやってみなければ分からない
前者との比較だけで語れるようなものではない