理解しやすい人
今日は久々に外に出た気がした。いや毎日何かしら外出はしているのだが、「外に出た」という気はしなかった。心理的なものだと思う。
夜型になってしまったので、朝方に戻すために起きていようと思ったのだが、気付いたら眠っていて起きたら2時過ぎだった。
気温も上がってきているし、釣りにでも行くかーと思い、夕方から釣りにいった。
1時間ほど竿を出してみたが何も食わなかった。
糸にとろろ昆布みたいな海藻がよく付いてくる。
これのせいで魚が居なくなってしまったのだろうか。
これが無くなった頃にまた釣れ出すかも知れない。
帰って来て風呂に行き、晩ごはんにハンバーグを買ってきて焼いたら、ヘンな匂いがする。どうやらタレ付き焼肉の牛肉を使っているらしい。タレの独特な匂いがする。
食べたら暫くして背中が猛烈に痛くなってきて、20分ほど苦しんだ。やはり鮮度が良くなかったらしい。胃袋が拒絶したのであろう。でもなんとか消化してくれた。
風呂の帰りにバイクを運転しながら考えていた事がある。
他人のことを理解する、と言う。この一言だけでもその内実は色々ややこしい。
個人的な実感としては20代半ば、大学を出た頃から他人を理解することはどんどん難しくなった。
これはあくまでも実感であって、実際は他人を理解する必要がなかっただけ、という可能性が高い。
まわりの大学生は自分と出自も似ているし、合わない人間とは付き合う必要はないし、生活に余裕もあるのでお互いの矢印が相手の方に向きやすいのだ。
大学を出ると、全てが逆転する。
出自の異なる人々と、合わなくても付き合いがあって、余裕がなくお互いに矢印が自分に向いている状態で、他人を理解する。
こんなこと、そもそも無理なのである。
そしてわたしは他人を理解することにほとほと疲れてしまった。
暫くお休みしたいのだ。
しかし、あることに気がついた。
他人から見て、理解しやすい人間であれば、まだ理解することをお休みしていても、まだ付き合いやすいのではないか?と。
理解しやすい人とはどんな人々だろうか。
会社員、投資家、学生、左翼、善人…など
分かりやすいラベルを持っている人だろうか。
いや、ラベルでは中身は何も分からない。
簡単なことだ。
理解しやすい人であるには、ただ正直でありさえすればよいのだと思う。
軽い気持ちで
今日の体調はまぁまぁ。
そろそろ活動できるようになってきたので、無理をしない範囲でやっていく。
今の仕事はあとひと月で終わりにしようと思っているので、それに向けて色々と準備をしなくては、と思っている。
昼間で寝て、温泉に行って、帰りにいつもの唐揚げ屋でもも2本(500円)を晩御飯代わりに買って帰った。
軽い気持ちで何でもやればいい、軽い気持ちで休んで、軽い気持ちで止めればいい、と思ったら楽になった。
軽い気持ちでやったら駄目なのは車の運転と結婚くらいなのではなかろうか。
この辺は軽い気持ちでやるような輩はそうそう居ない。そもそも法的な責任が生じる。
不満だって、軽い気持ちで言ったらよいのだ。
重くなると、どんどん言えなくなって、溜まっていって、爆弾のようになってしまう。
気持ちは軽くやるけども、言葉は重い、行為は重い、というのが一番よいバランスのように感じるけれども、それは簡単なことではない。
先ずは気持ちの軽さからやってみよう、と軽い気持ちで思うのだ。
言葉の重さとはその人の経験と思索から来るオリジナルな世界観を反映したものである。
単に重たい世界観を持っているということではない。重たいだけの世界観なぞただ辛気臭いだけである。
崩壊する社会と言葉
風邪をひき始めてから5日が経つ。
今日はかなり快復した。
身体の痛みが消えてきた。
昼夜問わずだいたい寝ている。
今日はパソコンを出して昔入れたCDを聴いたりしていた。
高校生の頃に集めて作ったアルバムを聴いて涙が流れた。
高校生の頃は真っ暗闇だった。
でも、外にはまともな社会があるのだと思っていた。だが若かったので、そこに折り合いを付けることで苦しんでいた。
あれからおよそ10年が経過した。
まともな社会は急速に崩壊した。
いや、もとから崩壊は進んでいて、それが2010年代から加速した、と言うべきか。
社会そのものがまともでなくなったら、折り合いを付けるという概念自体が脱臼させられてしまう。
自分の生命とプライドをかけて参加するべき社会そのものが失われた。
この先どうなるのか、見当が全く付かない。
社会の変化を捉える一つの手段として、使われている言葉について考えた。
戦後すぐは「飢え」とか「ハラが減った」という言葉はなくなった、と言う。
あまりに事実が明白になると、言葉は無くなる。
現代日本社会から無くなった言葉。そしてその言葉に対応する明白な事実とは何かと考えた。
それは悪意とか、不信とか、不義理といった言葉だろう。
それはもはやどこにでもありふれているので、取り立てて表現されることもなくなっている。
善意がなく、信念もなく、義理もない。
それが現代日本社会の明白な事実である。
それは皆が気付いているはずだが、灼熱の砂漠でそのうち「暑い」と言わなくなるように、わざわざ言葉にしなくなっただけなのだろう。
悪意に満ちた行為によって酷く理不尽な目に遭っても「酷い!」と言うことさえやめてしまった社会。
この先どうなってゆくのか、皆目見当も付かないのである。
風邪
昨日から風邪をひいている。
熱っぽく、頭が重たい。
風邪をひくのはおそらく3年か4年ぶりだろう。
長らく風邪をひかなかったのは、体力がなかったからだと思う。
風邪は精神に余裕のある時でなければひけない。
これは本当のことだ。
精神がギリギリの状態では、体調不良は起こらない。
脳みそが身体全体を騙してしまうのである。
少し心に余裕が出てきた、ということであろうか。
晩御飯を食べた後に8時間ぶっ通しでゲームをしたら、妙に悲しくなってきた。
頭がぼーっとする。
風邪の感覚は分からなくなった。
体調が良くなったというより、体調が知覚できなくなった。
こうやって毎日のように日記を書いていても、心の中は空っぽで、何一つ言いたいことなどない。
目の前にある物体をただ記述しているような感覚だ。
特別言っても言わなくても良いようなこと。
本当は何もかもどうでもいいのだ。
自暴自棄の状態が長く続いている。
どうしてこうなったのかよく分からない。
無理をし過ぎたのだろうか。
やりたくはないけれど、断りづらくて、やり続けてしまったからだろうか。
何一つ光明が見えないまま、今日も眠る。
雨の中の涙のように
今日は暖かい日だった。
温泉に行こうかと思ったら雨が降ってきたので、やめて眠ることにした。
布団の中でゴロゴロしながら、大学生だった頃を思い返していた。
殆ど退屈していた印象しかないのだが、よくよく考えると色んなことがあった。
一度だけしか話さなかったような同級生、喧嘩別れした友人、自然消滅した彼女、就職して見なくなった先輩、色々やったアルバイト…
そしてその後の2年間の貧乏生活。
全て川の水のように流れ去って遠くにいってしまった。
あれは夢だったのではないか?と今まさに目覚めたかのように思う。
良い思い出も嫌な思い出も、起こったことも結局起こらなかったことも、全ては夢であったように感ずる。
これが過去との決別というものなのだろうか。
妙にあっさりとしている。
過去の嫌な記憶でぐわわーっ!となっている時には、過去の記憶はまさにここにあって現実のように感ずる。
だが実際には夢のようなものなのかも知れない。
そしていずれ消えてゆく。雨の中の、涙のように。
痛み
昨日から背中が痛い。今日は仕事も休んで殆ど寝ていた。
無理をしない、と心に決めたはいいが、だからといって痛みが無くなるわけではない。
無理をすれば必ず苦しいし痛みもあるが、無理をしなくても痛みはある。
どうしようと痛みがなくなることはない。生きている限りは。
頭はほとんど働かないし何も考えることが出来ない。
ツイッタなどを眺めていても行われている議論に全くついてゆけない。
痛みばかりに気を取られていて、世界を理解しようという意思が失せてしまった。
この世界を流れてゆく言葉は嘘ばかりで、まことの言葉がどこにもない、と感ずる。
ある言葉を読んだ場合も自分で見出した場合も、「本当だ」と感じられることがない。
常に近似的で、捉えきれていない、という感がある。
自分の感情や心の細かな動きも全く捉えられない。
今まで捉えてきたものは殆ど「ニセモノ」であったと感ずる。
そもそも、本当に感じている事を言うと周りの人々が皆寄ってたかって怒り出すのがよくない。
怒られないように、望ましいことを感じているように振る舞ったり、感じてもいない感情を鉄砲の弾のようにこめて振る舞ったり。
こんなことばかりしていては病気にもなる。
無理をしてはいけない
昨日運動をしたからか、1日中だるかったのでほとんど寝ていた。
昨日読んでいた「透明な力」の中の「無理をしてはいけない」「無理をせずにやれるようになることが鍛錬である」という言葉がずっと頭に残っている。
かつて、自分は無理をしてしまった。
やりたくないことを、無理をしてやってしまった。
いや、もはや途中からは「無理をしている」という自覚さえもなかった。
やってくるタスクをただ必死で一人でこなしていた。
無理をして当たり前になっていた。
いつしか無理をしなくては今まで出来ていたこともできなくなっていた。
無理をして、気持ちの上では120%の力を出しているつもりなのに、実際には期待される半分の力も出ない。
そして周りの人々の期待を裏切ることとなった。
無理をしてはいけない。
絶対に無理をしてはいけない。