げじげじ日記

私の世界

雑感

今日は色々思うことの多い日だった。

最近はツイッタを見てもネットのニュースを見ても、そこからはあまりものを考えなくなった。

煽動的な話題が多すぎるし、そういうものからは距離を置くようになった。

「そうなのか」でおしまい、にしている。
自分には他に考えるべきことがある。


思うところがあって、英語のペーパーバックをアマゾンで買って読み進めている。

辞書を使わないで読んでいるから、全く分からない単語が沢山ある。
向こうでは児童書に分類されるようなものらしいが、単語が分からないので何を言っているのか分からない。

取り敢えず10ページほどを一週間かけて読んだが話の流れが分からない。何が起こっているのか分からない。

そこで今日はもう一度初めから読んでみたら、何故か今度は少しは分かるようになっていた。

文書にはリズムがあって、だいたい何について書いているのか、が分かってくる。

具体的には単語の意味よりも先に、情景が思い浮かんできて、
それから使われている単語が大体どういう意味なのかが分かってくるのだ。

ふつう英語の学習は単語から文章を読み取ることだと思われているが、それは誤りなのかも知れない。


久しぶりに「透明な力」を読んだ。
この本は稀に見る生命の感じられる書物だと思う。

一年前に怪我をして、合気道は止めてしまったが、久しぶりに鍛錬をしてみた。

少し身体を動かすだけでも気分が澄んでゆくのを感じる。

運動というのは人間の心にとってかなり大切なものだと分かった。
身体が弱れば気力も弱る、ということだろうか。


明るく振る舞う、ということについて考えた。

以前自分がいた所では、明るく振る舞っていた。

しかしそれは長くは続かなかった。

明るさを自分の武器というか、周りへの貢献のために用いていたように思う。

それ以外の働きはとくに見せなかった。

そして明るさはやがて消えていった。

自分をロウソクに例えてみれば何が起こったのかよく分かる。

ほんのりと、暗闇の中でゆらゆらと燃え続けるロウソク。
それが自分のほんとうの明るさだったのではなかろうか。

それなのに無茶をして、電灯の光でも出すかのように明るく振る舞って、ロウソクを凄い勢いで燃やしてしまった。

明るく振る舞うことなど、必要なかった。
ただロウソクのようにうっすらと燃えていればよかった。

特に今のような暗闇の中では。

落ち着き

今日は取り立てて何もなかった。

競馬をするにも競馬用の口座に金が入っていない。
土曜日で全て使ってしまった。

7時に目が覚めたのだが、あまり眠った気がしなくて、結局昼過ぎまで寝ながらたまに眠ったりしていた。


2時を過ぎてから山の温泉に行こうと思いバイクに乗った。外は寒かった。天気は良い。

山道を登ってゆくと、雪ががっつり積もっていて、タイヤが空転してしまい、登れなかった。

諦めて山を降りた。途中でバイクを停めて、山の中に入ってみた。

水の流れ落ちる音が聴こえるので、そちらへ雪を踏みしめ、杉の中を足元を確かめながら歩いていった。

川があって、大きな岩がゴロゴロと転がっている。
その後ろには苔むした緑色の石垣が4メートルほど積み上がっている。

おそらく昔よく使われていた川なのだろう。
何年もかかって大勢の人が石垣を積んだのだろう。
遺跡のようだ。

懐かしい、と思った。


更に色々と寄り道をして、風呂に行って帰ったら6時に近かった。


ものやひとに触れることができないでいる。
見ているようで、ぼやけている。
表面をなぞってさえもいない。

落ち着いて、ものに触れる。ひとに触れる。
何と難しいものだろう。

これさえ出来れば大体の個人的なことは解決するように思われる。

「やりきれなさ」はどこへいったのか

久しぶりに日記を書く。
最近は気分が好転してきている。

将来への不安や過去嫌な思い出の反芻がなくなった。それらを直ぐにやめることが出来るようになった。

「つまらない」と感じるようになった。
今やっていることに注意を払うようになった。

すると、退屈してきた。
今までは不安になったり、過去の思い出を思い返して腹を立てたりしていたので、退屈しなかった。
単に飽きた、ということなのかも知れない。


他人の死や別れに対する感情が昔と今とでは異なっている気がする。
また、似たような所で物語の終わりに対する感情も変化してきた。

昔は漫画など読むと、終わりが近づくにつれて、何ともやりきれない気持ちになったものだ。
また、別れのシーンなどでも同様にやりきれない、悲しい気持ちになった。

その先がなくなる、ということに「やりきれなさ」を感じていたのだろうと思う。
永遠に続いて欲しい、という願いに対抗して、死があり、別れがあり、物語の終わりがある。

永遠というものを信じたいからこそ、やりきれない悲しみが襲ってくるのだ。

今はどうか。
こうした「やりきれなさ」は20代のどこかで投げ捨ててしまった。

今はこうだ。
何事にも永遠というものはない。人はいつかは死ぬ。人と人は別れる。物語は終わる。
これら全ては偶然の産物である。

だが、思い返すと、「やりきれなさ」を失ったら、心の底に「あきらめ切った」感情がすーっと音もなく入ってきた。

「あきらめる」というのは美徳の一つで、いつまでも何かに拘泥して苦しんでいる人にとっては大事な
心の動きである。

だが、あきらめ切ったら、その先には虚無しかない。


やはり人は永遠を信じていなければ満たされて生きることはできないのではないかと思う。

どう生きるか

最近完全に昼夜が逆転している。
昼過ぎから眠くなって3時間ほど眠るだけ。
夜は一応寝るが全く眠くないので、ネットをしたり本を読んだりして過ごしている。

ブログを読むのが好きだ。
はてなブログにも面白いものはあるけど、もっと古いタイプの、黒の背景に白や黄色の文字で書いて在るものが好きだ。

内容がアングラで、個人の主観的な情報の濃いものが好きだ。
残念ながらそういうブログは少ないのだが。


身体がおかしくなって二年が経つ。
大きな病気なのではないか、と不安になることがある。
身体はギシギシ、バキバキと音を立てている。
横になると細かな震えが止まらない

だが、身体だけの問題ではない。
一番の問題は心のこと。

「どう生きるか」がない。

これがなくても全く問題にならない人生というのもある。
自分も22歳くらいまではそうだったと思う。

だが、一度そこを飛び出して自分のオリジナルな人生を生き始めると、もはや「どう生きるか」が定まっていなくては生きてゆけなくなる。

自分の場合は2年前にそれが起こってしまったのだ。
原因は色々とある。
仕事のこと、趣味のサークルのこと、異性のこと…。

「どう生きるか」に悩み始めたのだと思う。
あちらのがいいか、こちらのがいいか、と見比べて何も実現に踏み出せない状態。
それが2年も続いている。

これが決まらなければ、自律というものがない。
自律がなければほんとうの私には出会えない。

人間は勝手気ままに生きると、ほんとうの私からは却って離れてゆく。

理想の姿を目標に自分を他人に作り変えるような偽の自律(世間一般の自律はだいたいこれである)ではなく、ほんとうの私に出会うための自律。

ほんとうの私に出会うために、どう生きるか。
そしてどう生きるかに合わせて生活を律してゆくことが大切なのだと思った。

自律とは身体の震えを止めることではなく、震えながらもちゃんと動いていくことだ、と思った。

人間の掌の上にある世界

今日は朝から電話で起こされてとても気分が悪かった。

電話の用事が済んだらすぐ寝て、昼過ぎにうどんを作って食べてまた寝て、3時間くらい眠った気がする。

最近はあまり動く気になれない。
かといって眠れるかというとあまり。
動く気になれないからずっと眠っていたいのだが。
身体は思い通りにはならないものだ。


昼間寝ながら考えていた。

アメリカで起こっているあれこれについてツイッタで見てて思った。
世界が人間の掌の上にある、という観念に基づいてアメリカの現実は作られている。

掌の上にあるというのは比喩で、ようはそれの意思に基づいて作られたり変化したりするということだ。

それは神であったり、人間であったり、人工知能であったりするかも知れない。

世界が神の掌の上から人間の掌の上に移った、という考え方はイバン・イリイチの遺言書「生きる希望」から得たものだ。

読んだ時にはよく分からなかったが、ああこういうことかな、と思った。

人間の掌の上にある、のなら後は「誰の」ということが問題になる。

また、自分自身もまた自分や他人の掌の上にある、という妄想も生まれる。

世界が人間の掌の上にある、という観念を持たなければ、自分自身が誰かの掌の上にあるという妄想も持ちようがない。

「意思によって操作されるべきもの」という存在自体があり得ないからだ。

自分自身を「自分の意思によって操作されるべきもの」という妄想は、「他人によって操作される」という妄想へと繋がる。

だが、実際には人間は自分によっても他人によっても「意思によって操作されるもの」ではない。

だから、そうしたことを怖れることはない。

そんなことを思った。

恥ずかしい

最近体調がおかしい。ゲームのしすぎだろうか。
あまりよく眠れない。

今朝は6時くらいに眠って9時に目が覚めてしまった。

心臓が苦しくてかなり参った。

んで、いつもの事ながらいろいろ考えてたんだけど。


昨日の晩は、自分の事を幽霊みたいだなと思っていた。

何もかも失敗して、現実に興味を持てなくなって、何もかも身体をすり抜けていくような感じ。 

それでいて、未練があって今いる所から離れることができない。

まるで地縛霊の典型で、思い付いた時に笑ってしまった。

何で今まで気付かなかったのだろう。
幽霊とは実際の人間のことだったのだ。

未練がなくなれば、別の場所へ行くのだ。
とすれば、焦点はその未練とは何なのかという所にあると思われる。


後は今朝動悸の中で思っていたこと。

失敗とか挫折と表現されることをどう捉えるかって難しいと思った。

一言で表されてしまうからこそ、世間一般にこういうものだ、という固定観念があって自分がどう感じているかということが見にくくなる。

挫折してそこから再び立ち上がる、というのはカッコイイお話だが、そういうものを見すぎて、立ち直るということはこーゆーものである、と思い込みすぎているのではないか。

立ち直ることを意識しすぎて、すぐに立ち直ったと虚勢をはっている、とか。

そういうものを全部無視して、心に思い浮かんだのは

「恥ずかしい」だった。

大きな事を言って、やったことが全て失敗して、ただただ恥ずかしい、のだった。

別に失敗は恥ずかしいものだ、と考えているわけではなくて、自分自身がとても恥ずかしい心持ちになった、ということだった。

落ちぶれた、うらぶれた、と思うことを心のどこかで拒絶していた。

でも本当は 落ちぶれて、うらぶれて、恥ずかしいという気持ちでいっぱいだった。

今はただそれだけ。

砂時計の中へ

今日は起きたら10時半だった。

洗濯機を回して辺りを散歩する。
昨日にもまして今日は暖かい。

畑のあぜ道でボーッとしつつ、俳句でも読もうかと色々と考えた。

ふたりきり あなたとわたし はるのよう

月並みだが、まぁできたのでよしとしよう。


夕方から仕事をして、終わってからは2時までずーっとゲームをしていた。

小学生の頃のスーパーファミコンのゲー厶。

夢中でやってると、色々な考えが頭をコツコツと叩いてくる。

「こんな何もならないことに夢中になってていいのか?」

「お前はまだ人並みにも稼いでいないし地位もないのに、新しくもない、こんな昔にやり尽くしたようなもので遊んでいていいのか?」

ああ、どっぷり呪われてるな、と思う。

これは「怖れ」なのだ。

好きなことをして、あっという間に時間が経つことへの怖れ。

時間を自分の手でコントロールして、予定通りに物事を進め、やるべきことをこなしてゆく。

そうした生き方に慣れると、「時間に飲み込まれる」ような瞬間が怖くなり始めるのだ。

砂時計を眺めて、砂が減ってゆくのを見ながら焦るような生き方。

それよりはむしろ、砂に飲み込まれて吸い込まれてゆくような生き方こそ望ましいように思える。