げじげじ日記

私の世界

軽い気持ちで

今日の体調はまぁまぁ。
そろそろ活動できるようになってきたので、無理をしない範囲でやっていく。

今の仕事はあとひと月で終わりにしようと思っているので、それに向けて色々と準備をしなくては、と思っている。

昼間で寝て、温泉に行って、帰りにいつもの唐揚げ屋でもも2本(500円)を晩御飯代わりに買って帰った。


軽い気持ちで何でもやればいい、軽い気持ちで休んで、軽い気持ちで止めればいい、と思ったら楽になった。

軽い気持ちでやったら駄目なのは車の運転と結婚くらいなのではなかろうか。
この辺は軽い気持ちでやるような輩はそうそう居ない。そもそも法的な責任が生じる。

不満だって、軽い気持ちで言ったらよいのだ。
重くなると、どんどん言えなくなって、溜まっていって、爆弾のようになってしまう。

気持ちは軽くやるけども、言葉は重い、行為は重い、というのが一番よいバランスのように感じるけれども、それは簡単なことではない。

先ずは気持ちの軽さからやってみよう、と軽い気持ちで思うのだ。


言葉の重さとはその人の経験と思索から来るオリジナルな世界観を反映したものである。
単に重たい世界観を持っているということではない。重たいだけの世界観なぞただ辛気臭いだけである。

崩壊する社会と言葉

風邪をひき始めてから5日が経つ。
今日はかなり快復した。
身体の痛みが消えてきた。

昼夜問わずだいたい寝ている。
今日はパソコンを出して昔入れたCDを聴いたりしていた。

高校生の頃に集めて作ったアルバムを聴いて涙が流れた。
高校生の頃は真っ暗闇だった。
でも、外にはまともな社会があるのだと思っていた。だが若かったので、そこに折り合いを付けることで苦しんでいた。

あれからおよそ10年が経過した。
まともな社会は急速に崩壊した。
いや、もとから崩壊は進んでいて、それが2010年代から加速した、と言うべきか。

社会そのものがまともでなくなったら、折り合いを付けるという概念自体が脱臼させられてしまう。
自分の生命とプライドをかけて参加するべき社会そのものが失われた。

この先どうなるのか、見当が全く付かない。


社会の変化を捉える一つの手段として、使われている言葉について考えた。

戦後すぐは「飢え」とか「ハラが減った」という言葉はなくなった、と言う。
あまりに事実が明白になると、言葉は無くなる。

現代日本社会から無くなった言葉。そしてその言葉に対応する明白な事実とは何かと考えた。

それは悪意とか、不信とか、不義理といった言葉だろう。
それはもはやどこにでもありふれているので、取り立てて表現されることもなくなっている。

善意がなく、信念もなく、義理もない。
それが現代日本社会の明白な事実である。

それは皆が気付いているはずだが、灼熱の砂漠でそのうち「暑い」と言わなくなるように、わざわざ言葉にしなくなっただけなのだろう。

悪意に満ちた行為によって酷く理不尽な目に遭っても「酷い!」と言うことさえやめてしまった社会。

この先どうなってゆくのか、皆目見当も付かないのである。

風邪

昨日から風邪をひいている。
熱っぽく、頭が重たい。
風邪をひくのはおそらく3年か4年ぶりだろう。

長らく風邪をひかなかったのは、体力がなかったからだと思う。

風邪は精神に余裕のある時でなければひけない。

これは本当のことだ。
精神がギリギリの状態では、体調不良は起こらない。
脳みそが身体全体を騙してしまうのである。

少し心に余裕が出てきた、ということであろうか。


晩御飯を食べた後に8時間ぶっ通しでゲームをしたら、妙に悲しくなってきた。

頭がぼーっとする。
風邪の感覚は分からなくなった。
体調が良くなったというより、体調が知覚できなくなった。

こうやって毎日のように日記を書いていても、心の中は空っぽで、何一つ言いたいことなどない。

目の前にある物体をただ記述しているような感覚だ。
特別言っても言わなくても良いようなこと。 

本当は何もかもどうでもいいのだ。
自暴自棄の状態が長く続いている。

どうしてこうなったのかよく分からない。
無理をし過ぎたのだろうか。
やりたくはないけれど、断りづらくて、やり続けてしまったからだろうか。

何一つ光明が見えないまま、今日も眠る。

雨の中の涙のように

今日は暖かい日だった。

温泉に行こうかと思ったら雨が降ってきたので、やめて眠ることにした。


布団の中でゴロゴロしながら、大学生だった頃を思い返していた。

殆ど退屈していた印象しかないのだが、よくよく考えると色んなことがあった。

一度だけしか話さなかったような同級生、喧嘩別れした友人、自然消滅した彼女、就職して見なくなった先輩、色々やったアルバイト…

そしてその後の2年間の貧乏生活。

全て川の水のように流れ去って遠くにいってしまった。

あれは夢だったのではないか?と今まさに目覚めたかのように思う。

良い思い出も嫌な思い出も、起こったことも結局起こらなかったことも、全ては夢であったように感ずる。

これが過去との決別というものなのだろうか。
妙にあっさりとしている。

過去の嫌な記憶でぐわわーっ!となっている時には、過去の記憶はまさにここにあって現実のように感ずる。

だが実際には夢のようなものなのかも知れない。

そしていずれ消えてゆく。雨の中の、涙のように。

痛み

昨日から背中が痛い。今日は仕事も休んで殆ど寝ていた。


無理をしない、と心に決めたはいいが、だからといって痛みが無くなるわけではない。

無理をすれば必ず苦しいし痛みもあるが、無理をしなくても痛みはある。

どうしようと痛みがなくなることはない。生きている限りは。

頭はほとんど働かないし何も考えることが出来ない。

ツイッタなどを眺めていても行われている議論に全くついてゆけない。

痛みばかりに気を取られていて、世界を理解しようという意思が失せてしまった。


この世界を流れてゆく言葉は嘘ばかりで、まことの言葉がどこにもない、と感ずる。

ある言葉を読んだ場合も自分で見出した場合も、「本当だ」と感じられることがない。

常に近似的で、捉えきれていない、という感がある。

自分の感情や心の細かな動きも全く捉えられない。

今まで捉えてきたものは殆ど「ニセモノ」であったと感ずる。


そもそも、本当に感じている事を言うと周りの人々が皆寄ってたかって怒り出すのがよくない。

怒られないように、望ましいことを感じているように振る舞ったり、感じてもいない感情を鉄砲の弾のようにこめて振る舞ったり。

こんなことばかりしていては病気にもなる。

無理をしてはいけない

昨日運動をしたからか、1日中だるかったのでほとんど寝ていた。


昨日読んでいた「透明な力」の中の「無理をしてはいけない」「無理をせずにやれるようになることが鍛錬である」という言葉がずっと頭に残っている。

かつて、自分は無理をしてしまった。
やりたくないことを、無理をしてやってしまった。

いや、もはや途中からは「無理をしている」という自覚さえもなかった。

やってくるタスクをただ必死で一人でこなしていた。

無理をして当たり前になっていた。

いつしか無理をしなくては今まで出来ていたこともできなくなっていた。

無理をして、気持ちの上では120%の力を出しているつもりなのに、実際には期待される半分の力も出ない。

そして周りの人々の期待を裏切ることとなった。

無理をしてはいけない。
絶対に無理をしてはいけない。

雑感

今日は色々思うことの多い日だった。

最近はツイッタを見てもネットのニュースを見ても、そこからはあまりものを考えなくなった。

煽動的な話題が多すぎるし、そういうものからは距離を置くようになった。

「そうなのか」でおしまい、にしている。
自分には他に考えるべきことがある。


思うところがあって、英語のペーパーバックをアマゾンで買って読み進めている。

辞書を使わないで読んでいるから、全く分からない単語が沢山ある。
向こうでは児童書に分類されるようなものらしいが、単語が分からないので何を言っているのか分からない。

取り敢えず10ページほどを一週間かけて読んだが話の流れが分からない。何が起こっているのか分からない。

そこで今日はもう一度初めから読んでみたら、何故か今度は少しは分かるようになっていた。

文書にはリズムがあって、だいたい何について書いているのか、が分かってくる。

具体的には単語の意味よりも先に、情景が思い浮かんできて、
それから使われている単語が大体どういう意味なのかが分かってくるのだ。

ふつう英語の学習は単語から文章を読み取ることだと思われているが、それは誤りなのかも知れない。


久しぶりに「透明な力」を読んだ。
この本は稀に見る生命の感じられる書物だと思う。

一年前に怪我をして、合気道は止めてしまったが、久しぶりに鍛錬をしてみた。

少し身体を動かすだけでも気分が澄んでゆくのを感じる。

運動というのは人間の心にとってかなり大切なものだと分かった。
身体が弱れば気力も弱る、ということだろうか。


明るく振る舞う、ということについて考えた。

以前自分がいた所では、明るく振る舞っていた。

しかしそれは長くは続かなかった。

明るさを自分の武器というか、周りへの貢献のために用いていたように思う。

それ以外の働きはとくに見せなかった。

そして明るさはやがて消えていった。

自分をロウソクに例えてみれば何が起こったのかよく分かる。

ほんのりと、暗闇の中でゆらゆらと燃え続けるロウソク。
それが自分のほんとうの明るさだったのではなかろうか。

それなのに無茶をして、電灯の光でも出すかのように明るく振る舞って、ロウソクを凄い勢いで燃やしてしまった。

明るく振る舞うことなど、必要なかった。
ただロウソクのようにうっすらと燃えていればよかった。

特に今のような暗闇の中では。