げじげじ日記

私の世界

人間の掌の上にある世界

今日は朝から電話で起こされてとても気分が悪かった。

電話の用事が済んだらすぐ寝て、昼過ぎにうどんを作って食べてまた寝て、3時間くらい眠った気がする。

最近はあまり動く気になれない。
かといって眠れるかというとあまり。
動く気になれないからずっと眠っていたいのだが。
身体は思い通りにはならないものだ。


昼間寝ながら考えていた。

アメリカで起こっているあれこれについてツイッタで見てて思った。
世界が人間の掌の上にある、という観念に基づいてアメリカの現実は作られている。

掌の上にあるというのは比喩で、ようはそれの意思に基づいて作られたり変化したりするということだ。

それは神であったり、人間であったり、人工知能であったりするかも知れない。

世界が神の掌の上から人間の掌の上に移った、という考え方はイバン・イリイチの遺言書「生きる希望」から得たものだ。

読んだ時にはよく分からなかったが、ああこういうことかな、と思った。

人間の掌の上にある、のなら後は「誰の」ということが問題になる。

また、自分自身もまた自分や他人の掌の上にある、という妄想も生まれる。

世界が人間の掌の上にある、という観念を持たなければ、自分自身が誰かの掌の上にあるという妄想も持ちようがない。

「意思によって操作されるべきもの」という存在自体があり得ないからだ。

自分自身を「自分の意思によって操作されるべきもの」という妄想は、「他人によって操作される」という妄想へと繋がる。

だが、実際には人間は自分によっても他人によっても「意思によって操作されるもの」ではない。

だから、そうしたことを怖れることはない。

そんなことを思った。

恥ずかしい

最近体調がおかしい。ゲームのしすぎだろうか。
あまりよく眠れない。

今朝は6時くらいに眠って9時に目が覚めてしまった。

心臓が苦しくてかなり参った。

んで、いつもの事ながらいろいろ考えてたんだけど。


昨日の晩は、自分の事を幽霊みたいだなと思っていた。

何もかも失敗して、現実に興味を持てなくなって、何もかも身体をすり抜けていくような感じ。 

それでいて、未練があって今いる所から離れることができない。

まるで地縛霊の典型で、思い付いた時に笑ってしまった。

何で今まで気付かなかったのだろう。
幽霊とは実際の人間のことだったのだ。

未練がなくなれば、別の場所へ行くのだ。
とすれば、焦点はその未練とは何なのかという所にあると思われる。


後は今朝動悸の中で思っていたこと。

失敗とか挫折と表現されることをどう捉えるかって難しいと思った。

一言で表されてしまうからこそ、世間一般にこういうものだ、という固定観念があって自分がどう感じているかということが見にくくなる。

挫折してそこから再び立ち上がる、というのはカッコイイお話だが、そういうものを見すぎて、立ち直るということはこーゆーものである、と思い込みすぎているのではないか。

立ち直ることを意識しすぎて、すぐに立ち直ったと虚勢をはっている、とか。

そういうものを全部無視して、心に思い浮かんだのは

「恥ずかしい」だった。

大きな事を言って、やったことが全て失敗して、ただただ恥ずかしい、のだった。

別に失敗は恥ずかしいものだ、と考えているわけではなくて、自分自身がとても恥ずかしい心持ちになった、ということだった。

落ちぶれた、うらぶれた、と思うことを心のどこかで拒絶していた。

でも本当は 落ちぶれて、うらぶれて、恥ずかしいという気持ちでいっぱいだった。

今はただそれだけ。

砂時計の中へ

今日は起きたら10時半だった。

洗濯機を回して辺りを散歩する。
昨日にもまして今日は暖かい。

畑のあぜ道でボーッとしつつ、俳句でも読もうかと色々と考えた。

ふたりきり あなたとわたし はるのよう

月並みだが、まぁできたのでよしとしよう。


夕方から仕事をして、終わってからは2時までずーっとゲームをしていた。

小学生の頃のスーパーファミコンのゲー厶。

夢中でやってると、色々な考えが頭をコツコツと叩いてくる。

「こんな何もならないことに夢中になってていいのか?」

「お前はまだ人並みにも稼いでいないし地位もないのに、新しくもない、こんな昔にやり尽くしたようなもので遊んでいていいのか?」

ああ、どっぷり呪われてるな、と思う。

これは「怖れ」なのだ。

好きなことをして、あっという間に時間が経つことへの怖れ。

時間を自分の手でコントロールして、予定通りに物事を進め、やるべきことをこなしてゆく。

そうした生き方に慣れると、「時間に飲み込まれる」ような瞬間が怖くなり始めるのだ。

砂時計を眺めて、砂が減ってゆくのを見ながら焦るような生き方。

それよりはむしろ、砂に飲み込まれて吸い込まれてゆくような生き方こそ望ましいように思える。

釣り日誌(1月26日)

今日は休みだった。

昼に外に出てみると、陽の光が暖かくて心地が良かった。

少し周りの畑のあぜ道を歩きまわって、しょうにもなく、お地蔵さんの前で手を合わせてみたりした。

風もほとんどなくて、ぽかぽかとした春のような気持ちの良さ。

部屋にいるのも勿体無く感じて、釣り道具を持ってバイクで出掛けた。


いつもの餌屋に寄って、釣り場に着いた。

普段より水が透き通って見える。
日射しのせいだろうか。

しばらく竿を出したが、何も喰わない。

置き竿をして寝っ転がって空を見るでもなくぼーっとしたら気持ちが良かった。

船のエンジン音が少しだけ気になったけど。


結局2時間ほどで切り上げ、少し北へドライブをしてみることにした。

海岸沿いの道を北へと行く。
途中から山がちになり、肌寒い。路肩の日陰には溶け残った雪がちらほら見える。

右手にあった海が見えなくなり、トンネルを何度か抜けたら、半島の北側にいた。

遠浅の海が広がっていた。
エビの養殖場らしきものが見えた。

引き返して、ちょくちょく漁港に寄り道をしながら
帰った。
いい感じの釣り場があればまた来ようと思ったから。

帰りに家から近くの港で少し竿を出してみたが、何も釣れなかった。

最近冷え込んだから、魚もそれに合わせて色々と動きがあるのだろう。
 
次は南の方に行ってみようかな。

理想と不満の関係について

今日は変な日だった。

朝目覚めたのは10時半くらいだったか。変な夢を見ていた。

夢の内容は書かないが、相当長い話だった。
こんなに長い夢を覚えていることってなかなかない。

またうつらうつらとして、昼を過ぎてから起きて飯を作った。

外はよく晴れていて、窓から差し込む太陽の光が眩しい。

飯を食い終わったが、全身がだるくてあまり動く気にならない。ので寝ていた。仕事は夕方までない。


昨日の晩は色々と考えることがあった。

不満とは何だろう、と思った。不満というか、不機嫌というか。

現状への不満というのには、2つあると思った。
一つは息苦しさによる不満。
もう一つは理想が実現しない不満。

一つ目の不満というのはいわば水の中にいて息が出来ないようなもの。これは生きるために持つべき不満だ。

二つ目の不満はわれわれの理想に関する固定観念から来るものだ。それは、
「理想は適切なプロセスを踏めば必ず実現される」
「理想通りのものが適切な手段を用いれば必ず手に入る」
という不可疑の想定だ。

この想定があるために、人は理想が実現しないことに不満を抱く。周りのものにも、自分自身にも。

理想の実現が現実の満足に先立つ、というのは厳しい条件だ。

たとえ理想が実現していなくても、われわれは一つ目の不満のないこと、つまり息苦しくなく、生き生きと生きられていることで満足することができる。
固定観念を打破できれば、の話だが。

理想の実現によってのみ人は満足して生き生きと生きることができるわけではない。

理想の実現の為だけに生きて、それで生き生きとしているように見える人もいるが、内実はそうではない。自分自身や周りの人や社会への不満で満ちているものだ。

理想はひとまず置いておいて、まず自分自身が生き生きと生きることが先決だと思う。

それだけで現状に満足し、人は機嫌よく生きられるのだから。


われわれは固定観念の塊だ。それも自らを不幸にするような固定観念の。

そうしたものを崩してゆくことが、人生に対する誠実な態度と言えるのではなかろうか。

あなたとわたしの世界

今日は休みなので、8時くらいには起きていたけど昼まで寝ていた。

洗濯物を干して、昼ごはんを食べた。

その後何かを考えていた気がする。
昔の事を思い返していた。


あれは幼稚園の頃のことだ。
ふと「自分はここに必要なのだろうか?」と思って、掃除の時間に運ていの上で寝ていた。 

後で呼ばれて戻ると、もう掃除は終わっていて、他の子らに感謝と謝罪を述べて事は済んだ。

しかし、自分の疑問は掃除されずに心の底に残った。

誰かにとって必要とか必要じゃないとか考えることは馬鹿げていると思う。
必要とされる人に成りたかったわけではない。

ただ自分がこの世界に居るということを確かめたかっただけなのかも知れない。


自分が消えかけている。
もはや、誰の眼にも映っていない。

そうした時はどうするのだろう?
自分は、ここに、居るぞ、とアピールするのだろうか。

必要というのは、誰にも出来ない事が出来るとか、替えがきかない、とかいうことではない。それは機能やキャラクターに属する。

ぼくが欲していたのは、機能ではなく、存在としての必要だった。

別に世界にとって必要なピースでありたいと思ったわけじゃない。世界への影響などどうでも良い。

自分が消えてしまっても世界は問題なく動いていくし、それが良いところだ。
自分が消えたら世界が崩壊するんじゃ、責任が重すぎてやっていられない。

だが、自分という一つの世界は消えてしまう。
それはとても辛いことだ。

やっと分かってきた。
ぼくは、自分という一つの世界のことを他の人に認めて欲しかったのだと思う。
客観的な、皆が住んでいるところの世界とは全く別に存在する一つの世界。

それは世界のパーツなどではなくて、独立した一つの世界なのだ。

この世界のことを「人格」と呼ぶんじゃないだろうか。

それは世界に対する影響力のゲームのパラメータのことではない。

一つ一つ並べて比べることもできない「世界」だ。

だが、自分だけがそうした世界を持っていて、他の人には無いのだろうか。

いや、むしろ他の人に一つの世界があると分かることで、自分の一つの世界のことを確かだと感じるようになるんじゃないだろうか。

それはまだ予感だけど。

実質と言葉

仕事のミーティングで酔った。

温泉が良かったのか昨晩はよく眠れた気がする。
なので今日も温泉に行って来た。

山に入るあたりから気温がぐっと下がり雪が降り始めた。京都の雲ヶ畑を走ったのを思い起こした。
帰りのことを考えると少し怖ろしかった。

昨日と同じ温泉に入ってのんびりする。
が、何故か今日はのぼせてしまう。
気温が低いから湯の温度が高めになっていたのかも知れない。

帰りの山道は路面に雪が張り付いている所もちらほらあり、1速でゆっくりと下っていった。

ある程度下りると路面は濡れている。
そこからはかなりのスピードで走った。
すれ違う車も殆どない。

スピードを出しているのと、寒さで余裕がないため、考えごともなく、感じることも特になかった。

温泉から帰ったら港へ釣りに行こうと思っていたが、あまりに寒いので諦めることにした。


仕事についてはそれなりに言いたいことがあった。
だが遅すぎたのかも知れない。
何も変化はないだろう。


実質のないものは一時はうまくいったとしても長期的には失敗する。

いくら口で「○○は素晴らしい」と言っても、○○は素晴らしいかどうかは個々の心の中であらかじめ決まっている。

言葉ではなく、実際に行われていることが人の心に響く。言葉では頭はごまかせても心はごまかせない

見定めの付かない心の中のぐちゃぐちゃとした動きがある。それを無視して外から言葉を押し付けても、フィットするはずがない。

実質とは存在して、変化して動いているものだ。
心の中の動きも実質だし、組織での人の動きも実質だ。

問題は頭の中のイメージにある。イメージは実質ではない。イメージは常に変化し動くものではなくて、固定したものだ。つまり実質ではない。

実質とイメージの区別が付かなくなるほど混乱すると、実質を見てもイメージがそれを覆い隠してしまう。

イメージは感情を誘起する。この感情はスイッチで着いたり消えたりする電球のようなもので、心の中の動きとは何の関係もない。

ただ、感情によって大きな運動が起こることもある。ただこの場合他人の身体を動かすことはできても、心の中を動かすことはできない。