げじげじ日記

私の世界

死体のことば

外のものについて何ひとつ言うべきことがない

愚痴や
文句や
賞賛や
質問も
何も言うべきことがない

発散したいことも
繋がりたいものも
知りたいこともない

日本語で「なぜ」と問うことの不毛さ
理由を知ってももはや全ては手遅れなのだと
日本語の全てが言っている

日本語で「なぜ」と問うとき、それはもはや
状況への愚痴と文句と
「私は悪くない」という自己弁護に他ならない
英語の「Why」とは異なり
ものごとの理由を問うためのものではない

日本語は正気を失った
正気を失ったということを認識できないほどに

われわれのほとんどは
コミュニケーションという名前の
言語による情報のやりとりをしていることになっているが
実際に行われているのは
ただの話しであって
そしてほとんど話しは行われていない

わたしから生きた言葉は出てこない
死体の言葉を手渡して何になろう
「死んでいる」ということは分かるが
「生きている」ということは分からない

何かを喋るとき、わたしは頭の表面の凹凸をなぞり
口からそれを死んだ言葉として出すのだ

本当は何も話をしていない
生きた言葉は失われたままだ

怖れ

毎日、いつも心を縛り付けている何かがある
それが怖れだと気づいたのはいつだったか

それは心臓の表面に薄く張り付いて、心をいつも締め付けている

心の中から出てくるものを遮り、また心の内部を探ることを不可能にする

何を怖れているのだろう
それはいつからあるのだろう
心の内に問うてみる
だが締め付けられた心からは何も返答がない

それは死か
それとも生か
それとも他者か
社会か

話の通じない人々かも知れない、とふと思った
そんな記憶が様々に思い出されてくる

話を聞く気のない大勢の人々の目を前にしてわたしは立ちすくむ
話をしなければならない立場というのは奇妙なものだ
話を聴く気のない人に何故話さなければならないのか

わたしは分かって貰おうと必死に話す
だが離れて冷たく座った目たちはこちらに歩いては来ない

分かって貰いたいと考えるのは過ちであったか
力ずくで分からせるしかなかったか
分かるのはその人だが、自然な帰結として分かるような状況というのはあるし、無理やりそれを作り出すこともできるだろう

話が逸れてきてしまった
そう、何を怖れているのか、ということだった

まな板の上の鯉のように、斬られるのを怖れている気もする
斬ろうとしてくる大勢の目
こちらから斬り返されるということは全く想定してもいないような、怖れてもいないような、サディスティックな目付き

沢山の目たちの前で神経は高ぶり、声はぶるぶると震える

怖かったが、逃げることは許されなかった
怖い上に、やりたくもなかったのだから、怖さは克服などできるわけがなかった

恐怖はやがて身体に固定され、心は縛り着けられてしまった
その前に逃げるべきだった

恐怖を感じたのを感じていないようなふりをして、ごまかせば、それは何処までも追いかけてくる

恐怖はきちんと感じて、認識しなければならない

ことばを持たない魂

どうでもよいことだが、ブログのタイトルを日誌から日記に変えた
初めは日々の出来事をだらだらと書くつもりだったから日誌でよかったが、最近はさういうことは書かないから日記の方が妥当だと思った

ことばを持つということはことばを知っているということとイコールではない
わたしはことばを知っているがことばを持たない

どういうことか
例えば「嬉しい」ということばをわたしは知っている
だが、「嬉しい」ということばは持っていないので、「嬉しい」と言うことができない
「嬉しい」と言った瞬間にそれが嘘になってしまう

わたしの感じていることは大まかに言えば「嬉しい」なのだが、そのものではない
「悲しい」や「恥ずかしい」やら様々なものが混じり合って混沌としていることがほとんどだからだ

もはやそれは「嬉しい」とは言えない
適切に言い表すことのできない感情だけがある

自室にひとりで寝転がり、動くことさえもしんどいことがある
虚しい、とは思わない
うんざり、に近い

本当のところは虚しさで心の中はいっぱいなのかも知れない
満たされてそれが普通のことになると、感情はことばにならなくなる

あらゆることが、手遅れで、どうにもならなくなった
最初は虚しいと感じるが、その現実の中で生きていると、虚しささえもなくなる
ただ心を殺して生きる他ない

心の中

まことのことばを探している
かっこいいとか、見栄えがいいとかじゃなくて
はっきりと言い表せたと思えることば

例えば上の言葉は自分の心の内を観察して分析したことを書いているだけだ
はっきりと言い表せた、とは感じない
ただおおまかな形を与えただけに過ぎない

わたしはわたしの心の中に確かに存在するものを書きたい
だがどれだけ覗き込んでもそこには真っ暗闇しかない
真っ暗闇という言葉以外に何も見つからない
完全に無である
糸クズ一つ見当たらない

真っ暗闇だが静かなわけではない
小刻みに震えるようなノイズが聞こえる
それは言葉にならないうめき声のようでもある
それが四六時中、心の中に鳴り響いている

心の中には何も見えない。まっ暗闇で、何の言葉も見つからない
ただうめき声にもならないノイズがビリビリと鳴り響いている

バカンス

今日は昼まで寝ていた。昨晩は1時くらいに眠ったのだと思う。

気だるい。

14日金曜日に梅雨が明けたような気がして、近くの海岸の砂浜で泳いだ。

気温は高くてもまだ水は少し冷たい。海水の冷たいのが流れてくると身体がぞくぞくする。

ふと「しばらくバカンスにしよう」と思った。

バカンス。1ヶ月くらい何もしないで遊んで、走ったり泳いだり寝たりする。

ひと月経ったら丁度お盆が来る。海水浴ができるのもこの頃までだろうから、お盆までバカンスとすることにした。

そのうちに何かいい仕事が見つかればよし、見つからなくても縁が無かったということで、身体に英気を養って故郷に帰ればよし、悪い事は何もない。


人間の顔は常にその人の心を反映するものだろうか。
話をする。心の中を隠すためのたわいもない話をする。
相手の顔を見ているようで見てはいない。
自分の顔も相手の目から隠れている。

世界の重み

今日はほとんど1日中アニメや動画を見て過ごした。

何もやる気がしなくて、ただ流れてゆくものを見ていることしかできない。

生きているのか死んでいるのかも曖昧で、このまま死んでもいいか、と思えてくる。

全くこの世のものに、人に、重みがなくて、何もかも他人事で、どうでもよくなっている。

自分の生死さえもどうでもよい。

現実に腰を据えてやっていこうという気持ちにならない。


まぁその内現実に戻っていくことになるのだろう。

いつもそうだからだ。
そうなると現実も悪くはない、と思えてくるし、それなりに重みも感じられてくるものだ。

だが自分の中では覚えている。
現実が紙切れのようにペラペラで軽かったことを。
風に吹かれて飛んでいってしまうようなものであることを。

現実を重しとするのはわれわれ自身であって、現実を軽くするのもわれわれ自身である。

現実にはもともと重みはなくて、そこに重しを付けるのはわれわれ自身である。

贈り物

身体の中がもやもやしていて、落ち着かない。

もやもやは言葉にならない。

弱気になっていて、何をしてもうまく行く気がしない。

このもやもやも、世界から何かを受け取っているということなのだが、言葉にならないのだから何なのか分からない。

少しずつ言葉にしてみる。
「何であんなことをしてしまったのか…」
という後悔、かもしれない。

単純な悲しみとか寂しさとは異なる。
過去のことを悔やむ気持ちがある。

先のことが不安なわけでもない。
先のことは全く考えられない。

ふわふわとした不安な気持ちではなくて、どんよりとした、地面に縛り付けられているような気持ちがする。

何をしてもうまく行く気がしない。


われわれの身体の中に生まれる揺らぎは、全て世界から受け取っている贈り物である、という考え方がある。

それが善きものであれ悪しきものであれ贈り物である。

贈り物だからどうこうする、というのではなくて、ただ贈り物だと思う、ということだ。
必然でも偶然でもない、誰かが自由に贈る贈り物だと捉える。

贈り物とは、必然にやってくるものではないし、かといって偶然にやってくるものでもない。誰かの自由な意志によるものである。

贈り物は何も保証しない。
ある目的に向かって贈られてくるわけではない。

言葉にも贈り物としての言葉がある。
自分の役に立つように他人を操作する、自分によい印象を持ってもらう、などの目的ではなくて、ただ相手への贈り物としての言葉がある。

贈り物は予め定まってはいない。開けてみるまでは何なのか分からない。


この身体のもやもや、弱気も、贈り物なのだろう。たまには行ったことを悔やみ、恥じらいを持て、ということなのかも知れない。