げじげじ日記

私の世界

人間

今日は朝起きた時から体調が悪く、殆ど寝ていた。
最近はこういう日は珍しい。

寝ているとやはり色々と考え過ぎてしまう。
今日も昔のことを色々思い出してしまった。

カリカリしないように心掛けていても、ツイッタで気に入らない記事なんかがあるとカリカリしてくるのが分かる。

とはいえ確かに書いてあることは現実なのでカリカリしてもそうであることは間違いない。

ただ自分が受け容れたくないものだ、ということが分かるだけである。

うまく言えないな。
ようは自分の事と結び付かないなら現実として受け容れるのは容易いのだけど、まだ自分と関係のあることなので受け容れ難いということだ。


今日見てて腹がたったのは「妾になろう」という記事だった。

書いてあることは確かにその通りだ。社会進出した女性の殆どは給料が低く、生活に不安を感じている。

だが周りの高収入の男性は既に結婚している。低収入の男性には惹かれない。

となると高収入の男性の妾になって、仕事はそこそこに楽しく暮した方が良いではないかと考えるのは当然の流れだろう。

彼女らにとっては「安心」が一番大切なのだ。
恋愛結婚だ、一夫一妻だという絵空事には付き合えないのである。

フルタイムで月収15万円を下回る仕事に就いている若い女性たちにとっては今や当然の考えである。
勤めていた時そういうことを何人かから聞いたことがある。

子どもを産んで、経済的に支援して貰う。
子どもを産むことが、仕事なのである。
女性であることを活かそうという仕事。


われわれは常に自分の身を何かに任せなければならない。
その何かにどういったものを選ぶか。
答えはない。

今や人は他人の人格ひとつを信頼して自分の身を任せるということが出来なくなった。

女たちが不安と戦うことをやめ、安心を得る為に妾となる一方で、男たちは女を安心させる為の経済力を獲得するレースで戦い続けるのだ。

彼らには不安から逃れる術はない。


人間の時代は終わった!
人間であろうとすれば不安からは逃れられない。
人間であろうとすれば人生をめちゃくちゃにするしかない。

めちゃくちゃになった自分の人生を、それでも大事に抱えて走るのである。

たたかう

最近は記事を書いて途中で保存して、忘れてしまうことが多い。

何だかぼーっとする。
鎮痛剤やら漢方薬のせいだろうか。
でも身体にはよく効いている。
来週中には足は完治するだろう。


わたしたちは何と戦っているのか、なぜ戦っているのか、誰も知らない。

ただ、戦い続けてきて、そうしなければ生き残れないと思っている。

そして戦う必要があったのかどうかは、勝利した後に考えれば良い、と思う。

死体となった敗者は何も思わないし何も言わないから。


防衛の為に戦わなければならない、ということもあるだろう。

それにしても攻めてくるものは一体何なのか…分からない。

ただ攻めてくるものがあるという事実に反応して戦う。


生きることは日々戦いであるのか。
その戦いには、限界はないのか。

戦いとは比喩に過ぎない。

動物が獲物を追いかけるのも、天敵から逃げるのも戦いである。

巣を作るのも戦いであり、交尾をするのも戦いである。

こう見ていくと、だんだん戦いとは何かわからなくなってくる。


比喩としての戦いとは、頑張るということに過ぎない。

動物は頑張ってなどいない。
つまり戦ってなどいない。
ただ本能のままにそうしているだけだ。

人間は頑張らなくても生きられる道を探すことを頑張るべきではなかろうか。

身寄りがない

今日は天気が良かった。温泉に行く途中バイクで側溝に突っ込んで、足首と尻を痛めてしまった。

コケて直ぐはめちゃくちゃ痛くて、暫く動けず草むらで寝ていた。
メガネが無事だったのを見て安堵した。

何とかバイクを側溝から出して、山道を下り病院まで辿り着いた。
帰るのに誰も車で迎えに来てくれそうな人がいなかったので、タクシーを呼んだ。

身寄りがない、というのはこういうことなんだな、と思った。
頼りにできる人が一人もいない。
それは京都でも一緒だった。


最近どうもシャキっとしない。
正気を失っている気がする。

不本意な生活をしているとは思う。
そのせいなのだろう。


カリカリするのを気付いたら直ぐにやめるようにしたら、気分の落ち込みが少なくなった。
これはやる価値がありそうな気がする。

カリカリするなよ

今日は天気が良かった。
隣のばあちゃんの犬猫とグダラグダラと遊んだ。

リラックス、というのを随分忘れている気がする。
前もこんなことを思ったような。

あれは一昨年の秋だったか。
2年ぶりくらいに女の子とデートをした。
久しぶりに「遊び」「休み」というムードを感じて、溜息が出た記憶がある。

「休み」とは単なる無色透明な空白のことではなくて、感触を持ったムードのことなのだ。
ムードから離れ過ぎていると、感触そのものを忘れてしまう。


何故こんなに張り詰めて生きているのだろう。
張り詰めていても、うまくいくわけでもないのに。
起きていても寝ていても遊びや余裕がない。

いつからこんな風にカリカリするようになってしまったのだろう。記憶では、3年前くらいからではなかろうかと思う。

こういう風に過去を振り返ることも昔はあまりなかった。ここ1年くらいやたら多い。
こうした習慣もカリカリするようになってからのものだ。

時間が解決する、ということもある。
カリカリするのをやめよう」と決めたら、その火から解決へのタイマーが進み始めるのだと、そう思いたい。

最近の体調は一進一退という感じ。
寒くなるとやはり落ち込みやすい。

フェイスブックやyahooのアカウントに不正ログインされているようなので、各種パスワードを入れ替えた。

ついでにミクシィも久しぶりにログインして、過去の日記を見てみた。

6年前くらい、23歳の頃の日記を読むと、まーびっくりする程バカなことしか書いてない。

ノーテンキで、頭でっかちで、調子こいてたガキであったのだな。
最後の日記が2011年3月だから、丁度6年前。

それから6年間色々なことがあったなぁと思う。
行き当たりばったりで何も計画なんかしてないから、思いもしなかったようなことばかり起こった。

しかし方針のようなものはあった。
全てバラバラに壊して分解してみたかったのだ。
自分も、世界も。

その衝動のせいで色んな人に迷惑をかけた。
だいたい人は作って大事にしたがるけど、それを壊そうとしてしまうから。

とうとう自分自身をバラバラにしてしまって、自分が何をどう感じているのかさえも分からなくなってしまって、途方に暮れた。

もちろん他人のことなどまーったく分からなくなってしもうた。
自分自身のことさえ分からなくなってしまったのだから、他人のことなど分かるわけがない。

面白いことに、人は自分自身のことが分からなくなるほど、自分自身のことを他人から隠さなければならなくなるらしい。

こうした副産物のような発見は沢山ある。


でもそろそろ壊すのも終わりにして、作り始める時期なんではないか、と思った。

加齢と幸福

今日も風邪っぽくて怠い。口の腫れが治らない。

一時的に良くなったり悪くなったりを繰り返しているが、全体的には少しずつ悪くなっていっている気がする。

良くなった時には「大丈夫!」と思えるのだが、悪くなった時にはそんな気持ちは全部どこかへ飛んでいってどこにもない。

だんだん「大丈夫!」の気持ちも薄れていって、ただ冷静に「もうこんなことはやめよう…」という平静とした気分になってきた。

自分の中で何かが終わったのだと思う。


元気は全く出ない。
無い、というのではなくて、出ない。
何もかも尽き果ててしまったという感じ。


どこか納得がいかない、という感じがあって、それで何もやる気が起きない。

大人ならば納得がいかなくても飲み込んでやらねばならないこともある。
だけど、何もかもそれが出来る訳ではない。
そして出来たとしてもしょぼい仕事しかできない。

この先に将来がないと感じていて、目下の利得もなく、ただやることの楽しみもない仕事を懸命にはできない。

ちゃんと力を尽くして仕事をしたい、という気持ちが強くあるのだと分かる。


年齢を意識することが増えた。
一年の持つ手触りのようなものが変わった。
何も成さず、ダラダラとしていることに焦っている。
身体は年々弱くなってゆく。
頭も働かなくなっていく。

普通に就職していたら、毎年給料は上がるし、仕事も色々出来るようになっていって、年齢を重ねるということと、そうした現象が一致して、歳を取ることの手触りが違うのだろう。
組織に属している人はそういう歳の取り方をする。
組織が歳の取り方をある程度規定してくれる。


自分のやり方で歳を取ってゆくということに不安がある。
ただ毎日楽しければよし、という歳の取り方はなかなか難しい。
何もしなくても幸せ、というのが難しいのだ。
「歳を取る」ということと「幸せ」はぐちゃぐちゃと入り組んで絡み合っていて、複雑である。

幸せになるために、人は何かをしなければならないのだろうか?
「いま」は未来の幸せのための敷石でしかないのだろうか?

本当は、人は幸せになるために何かをしなくちゃいけない、ということはない。何もする必要はない。

おそらくこうだろう、と思っている。
それでも不安はなくなることはない。

どうでもよいこと

なかなか風邪が治らない。唇の荒れや口内炎が酷くて、口が全体的に腫れぼったい。
ほとんど何もやる気が出なくて一日寝込んでしまった。

鬱病なんではないかと思うことがある。

最近はどうも眠っている時の呼吸がおかしい。
胸が詰まっているような感じがして、苦しい。

気持ちを軽くしないと、また気持ちがどん底に戻ってしまいそうな気がして怖い。


今日は殆ど寝ていた。
夕方からうつらうつらとしてきて、気づいたら眠っていて、夜8時前に意識が戻ってきた。

涎を垂らしていて、頭の中がボーッとして、自分が誰なのかここが何処なのか、何も分からなくて心地が良かった。

朝起きて直ぐに、自分の事が分かるというのは全然面白くない。

それは現実が全く面白くないから、というのもあるが、現実を認識することの連続自体から逃れたいという気持ちもある。

もうどうでもよくない現実に飽き飽きしている。

何もかもどうでもいい瞬間こそ至高だ。
そう、本当は何もかもどうでもいいのである。

「どうでもよくないもの」に「どうでもいい」と言っているのではなく
「あれはどうでもいい」「これはどうでもよくない」と常に評価、判定することを免れたいと思っているのだ。