心の中
まことのことばを探している
かっこいいとか、見栄えがいいとかじゃなくて
はっきりと言い表せたと思えることば
例えば上の言葉は自分の心の内を観察して分析したことを書いているだけだ
はっきりと言い表せた、とは感じない
ただおおまかな形を与えただけに過ぎない
わたしはわたしの心の中に確かに存在するものを書きたい
だがどれだけ覗き込んでもそこには真っ暗闇しかない
真っ暗闇という言葉以外に何も見つからない
完全に無である
糸クズ一つ見当たらない
真っ暗闇だが静かなわけではない
小刻みに震えるようなノイズが聞こえる
それは言葉にならないうめき声のようでもある
それが四六時中、心の中に鳴り響いている
心の中には何も見えない。まっ暗闇で、何の言葉も見つからない
ただうめき声にもならないノイズがビリビリと鳴り響いている
バカンス
今日は昼まで寝ていた。昨晩は1時くらいに眠ったのだと思う。
気だるい。
14日金曜日に梅雨が明けたような気がして、近くの海岸の砂浜で泳いだ。
気温は高くてもまだ水は少し冷たい。海水の冷たいのが流れてくると身体がぞくぞくする。
ふと「しばらくバカンスにしよう」と思った。
バカンス。1ヶ月くらい何もしないで遊んで、走ったり泳いだり寝たりする。
ひと月経ったら丁度お盆が来る。海水浴ができるのもこの頃までだろうから、お盆までバカンスとすることにした。
そのうちに何かいい仕事が見つかればよし、見つからなくても縁が無かったということで、身体に英気を養って故郷に帰ればよし、悪い事は何もない。
人間の顔は常にその人の心を反映するものだろうか。
話をする。心の中を隠すためのたわいもない話をする。
相手の顔を見ているようで見てはいない。
自分の顔も相手の目から隠れている。
世界の重み
今日はほとんど1日中アニメや動画を見て過ごした。
何もやる気がしなくて、ただ流れてゆくものを見ていることしかできない。
生きているのか死んでいるのかも曖昧で、このまま死んでもいいか、と思えてくる。
全くこの世のものに、人に、重みがなくて、何もかも他人事で、どうでもよくなっている。
自分の生死さえもどうでもよい。
現実に腰を据えてやっていこうという気持ちにならない。
まぁその内現実に戻っていくことになるのだろう。
いつもそうだからだ。
そうなると現実も悪くはない、と思えてくるし、それなりに重みも感じられてくるものだ。
だが自分の中では覚えている。
現実が紙切れのようにペラペラで軽かったことを。
風に吹かれて飛んでいってしまうようなものであることを。
現実を重しとするのはわれわれ自身であって、現実を軽くするのもわれわれ自身である。
現実にはもともと重みはなくて、そこに重しを付けるのはわれわれ自身である。
贈り物
身体の中がもやもやしていて、落ち着かない。
もやもやは言葉にならない。
弱気になっていて、何をしてもうまく行く気がしない。
このもやもやも、世界から何かを受け取っているということなのだが、言葉にならないのだから何なのか分からない。
少しずつ言葉にしてみる。
「何であんなことをしてしまったのか…」
という後悔、かもしれない。
単純な悲しみとか寂しさとは異なる。
過去のことを悔やむ気持ちがある。
先のことが不安なわけでもない。
先のことは全く考えられない。
ふわふわとした不安な気持ちではなくて、どんよりとした、地面に縛り付けられているような気持ちがする。
何をしてもうまく行く気がしない。
われわれの身体の中に生まれる揺らぎは、全て世界から受け取っている贈り物である、という考え方がある。
それが善きものであれ悪しきものであれ贈り物である。
贈り物だからどうこうする、というのではなくて、ただ贈り物だと思う、ということだ。
必然でも偶然でもない、誰かが自由に贈る贈り物だと捉える。
贈り物とは、必然にやってくるものではないし、かといって偶然にやってくるものでもない。誰かの自由な意志によるものである。
贈り物は何も保証しない。
ある目的に向かって贈られてくるわけではない。
言葉にも贈り物としての言葉がある。
自分の役に立つように他人を操作する、自分によい印象を持ってもらう、などの目的ではなくて、ただ相手への贈り物としての言葉がある。
贈り物は予め定まってはいない。開けてみるまでは何なのか分からない。
この身体のもやもや、弱気も、贈り物なのだろう。たまには行ったことを悔やみ、恥じらいを持て、ということなのかも知れない。
虚無
虚無がある。全てが虚無の中にある。
その虚無を埋めるために、生の充実で埋めるために、何かをする。
酒をのむ、博打をする、人と会う、走る、山に登る…
しかし、虚無は決して満たされることはない。
虚無は消えることはない。
虚無の中で生きるとき、そのしんとした空間でしか受け取ることのできない揺らぎがある。
人は死ぬ。充実としての人は死ぬ。
だが、揺らぎとしての人は決して死なない。
揺らぎは伝わってどこまでも残る。
決して消えることはない。
虚無を満たそうとするな。
虚無の中から生まれる揺らぎを見つめよ。
自分の居場所は本当に存在するのか
朝のコンビニの前にしゃがんでいる。小雨が降って、ジメジメとした空気にタバコの臭いが合わさって、漂っている。
寝不足の気怠さと雨とタバコ。大学へ向かう人々が次々にバスに吸い込まれてゆく。
自分が亡霊になったような心地がする。
いるのかいないのかもよく分からない。
深く息を吸って、吐いて、生きていることを確かめようとする。
なんだかうまくいかない。
この世界には自分の居場所はない、と感じる。
いや、居場所がある、ということ自体が幻想なのだろうか?
居場所を作れ、という人もいた。
「Aがない」と言うとき、そもそもAというのは存在するのか、本当に求めているのものがAそのものなのか、という2点は確かめる必要がある。
居場所というのは存在しない。
自分がその時、一時的に世界を間借りしている、というしかない。
「自分の居場所」もまた現代の神話、つまり根拠の不確かな信仰なのかもしれない。
まだまだ足りない、満たされない、といって嘆くけれど、それは本当に存在するものなのか。
言葉だけであるような気がしているだけで、中身とか実体は無いんじゃないか。
バスに乗り込んで、ジメジメとした空気から解放されると、いくらか気持ちも軽くサラリとしてくる。
そして、ジメジメとしたさっきの気分が懐かしく思えてくる。
自分の居場所、というのが情緒的な幻想だと思うと、さっきまで求めていたものが散り散りになって、別に求めていたものはそれではなかったような気持ちがしてくる。
それでも何かを求めていることは確かだから、それが何なのか探る。
さっきは居場所というラベルを貼り付けたけれど、それは剥がれてどこかにいった。
寂しいとか、人恋しいとかいうわけでもない。
まだまだ求めてさまようことになりそうだ。
気力を保つには
今日、ツイッターを見ていたら、気分が落ち込んでいることに気づいた。
事件についてごちゃごちゃと議論しているのを見た。
いや議論になぞなっていなかった。
まっとうな一つの意見に馬鹿馬鹿しい意見が幾つもついている。
すっかり気分が滅入ってしまった。
弱っている、と感じた。
弱っていなければ何ともないようなことが、弱っているから、残り少ない気力がすり減る。
弱っている、と思うとツイッターをするのがしんどくなってきた。
暫くやめようと思う。
気力だけが頼りの状況で、とにかく少ない気力を減らさないようにしながらやっていかなくてはならない。
無駄なことに気力をすり減らす余裕はないのだった。
思えばむやみに気力をすり減らすようなことばかりに惹きつけられてきた気がする。
一種の自傷行為だったのかもしれない。
気力を奪うようなものばかり見ていたら、気力がすり減るのが自然な反応に決まっている。
逆に気力を増すようなものばかりを見ていたら、気力が増すのが自然な反応になる。
無理に気力を捻り出そうとしても鉄砲の弾をこめるのとは訳が違う。
気力を奪う、気が滅入るようなものから遠ざかること、これから始めるしかないのではないか。