げじげじ日記

私の世界

使命と良心

昨日の晩は風邪がぶり返して苦しかった。
むしろ今までのは風邪気味程度で、これが本番だという感じだった。

気持ちが悪くなって夕飯を全部戻してしまって、布団の横に洗面器とタオル、お茶を用意したら気持ちが楽になった。

一人暮らしで風邪をひくと凄く心細い。
これは経験した人でなければ分からないものの一つだと思う。

薬を飲むのは嫌だったが、あまりに苦しいので葛根湯を飲んだらかなり楽になった。
何故か葛根湯を飲んだ後から屁がたくさん出て、布団の中から異臭がしていた。

一人暮らしを始めて10年になる。心細いと思うことは殆どない。
人生のおよそ3分の1ということになる。
これがどう増減するのか今のところ分からない。



毎日色んなことを考えるけど、特に何もしていない。そのことに少し引け目がある。
思い返せば、大学のサークルでもあまり中心になってやったりはしなかった。
一番部室に入り浸ってたのに。

活動、というのが嫌いなのだと思う。
自分で計画して準備して人を招いて、というのは好きだけど、こういう事を皆でしましょう、となると
ヒエラルキーの臭いがしてきて、上にも下にも立ちたくはなくて、シラケてしまう。
まぁそれでもモブとして楽しくやるんだけど。

人の上に立つ、なんてやりたくない。
でも何もせずに口だけ出すのもやりたくはない。

人の上に立とうとしなかったことのツケを払わなければならないかも知れない。それも嫌だなあ。



今日の昼に考えていたこと。
自分のやるべき事がハッキリしたら、人生は相当楽になるだろうな、と思った。
やるべき事というか、自分の求めているものと言うべきか。
自分と他人を比較したり、自分は何てダメなんだと落ち込んだり、どこまでも「自分」のことばかり考えて、不安になって…というのは、大抵自分の求めているものを知らないからだ。

就活らしきイベントに参加してた頃、誘われて訪問した会社の社員がやたらと「使命」という言葉を使っていたのを思い返す。

その会社はとんでもないブラックで、離職率がバカ高いという情報がネットでは流れていた。


会社で働くことが「使命」だなんて、嘘っぱちだと思う。
「その会社は本当に世の中を良くしているのだろうか?」
という自分の良心に基づいた批判的な視座がなければ、せっかくの「使命」も根っこのない、何でも入れられるガラクタ箱みたいなものになってしまう。

そして、普通会社と呼ばれる場所で働いていれば、良心に反する事をいくらでもしなければならなくなる。

そもそも「世の為人の為」だって、嘘だと思う。
「使命」なんてものがあるとすればそれは個人的なもので、それが追求された結果、他人の役に立ったり、感動を与えたりするのではないか。

世の中や人様を治そうだとか、修正しようだとか、そういう志はちょっと暑苦しい。
「世の為人の為」に人間をガス室に送り込むことを使命とした人々のことを忘れてはいけない。
何とも頼りない、個人的な良心だけがそれを阻止する力を持っている。

少し説教臭くなってしまった。

もう6年以上経つけれど、あの社員さん、まだあの会社で勤めてるんだろうか。少しだけ気になる。

就活と仕事

今日も晴れ。夏の太陽を仄かに感じるような日射し。

隣の婆さまに庭で紅茶をご馳走になった。
ロクに仕事もしていないので少し心苦しい。


今日はもう日付が変わったので3月ということになる。

ツイッタを見ていると「就活」の文字が目に入る。

しかし自分は就活と呼べるほどの「活動」を殆どしなかったので、何だかよく分からない。
馴染みのないもの、というイメージがある。

結局就活は殆どしなかった。エントリーシートというのは一枚だけ書いた。面接は受けずにスルーした。
やるべきかどうかもあまり悩んだりしなかった。全く面白いと思わなかったのでやめてしまった。

仕事を始めるのに、何故仕事ではない活動を先にしなければならないのか、全く分からなかった。

自分の「仕事」のイメージはあまりにプリミティブなものだったな、と今なら思うけど。

自分自身仕事は好きだけど、仕事以外の事を仕事であるかのようにやらされるのが嫌だった。

世の中では自分が仕事だとは全く思わないような慣習や作法に「仕事」という名前が付いているのだと気付くのに、何年もかかった。

仕事の為の「仕事」があって、むしろそういうことの方を仕事と呼んでいる、会社という組織には全く合わないので、やっても詮無きことだっただろう。


仕事でも就活でも趣味でも、「無理をしない」ということに尽きると僕は思う。
それぞれに別々のルールがある訳ではない。
むしろルールを作るのは自分自身なのだと思う。
どれも自分の人生の内にあるものなのだから。

無理をする、というのは自分のルールを破ることでもある。
それは決して人生を豊かにはしない。

そして無理をしなくても、生き延びて人生を豊かにする術は幾らでもある。

むしろ、これからはそういう世界を作っていかなければならないと思うのです。

敬意とは何か

今日は天気が良かった。体調も良好。布団のシーツを全て洗って干した。

昼間木刀を降っていたら、隣に住むおばあさんが出てきて半時間くらい話した。

おばあさんは戦前の生まれで、とても立派な人である。


立派な人と話をしていると、自然に敬意というものが自身から出てくるのを感じる。

敬意が出て来ない時、相手があまり立派な人ではないこともあるし、自分が疲れ過ぎている、ということも有りうる。

人間は捻くれて、拗らせている人にはあまり敬意を持てないものだ。

また、自分が心身ともに疲労困憊した状態では、敬意が出てこないということはある。
こういう時は人には会わずに眠ったほうがいい。

どちらにせよ、その時どきに敬意の持てない人とはあまり関わってもよいことはないだろうと思う。
敬意を持たなくてはならない、と思っても、敬意とは鉄砲のタマのようにこめることはできないものだ。


敬意とは何なのだろうか。
それは、お互いに善意を信じている人間の間でやり取りされる何かだ。

子どもに対する敬意というのは、その子が未来を担い良くしてゆく立派な人になる可能性に対しての敬意であろうと思われる。

人間は過去の実績に敬意を払うのではなく、現在そして未来を見て敬意を自然に持つのだろう。

敬意が自然に湧いてくるような状態を保つことが、心の鍛錬と呼ぶに相応しい、意味のあることだと思う。

薄氷の上で

今日の体調はそこそこ。
洗濯も自炊もできたのは久しぶりなんではないか。

3時ごろに温泉に行った。
途中色々なことを思って涙が出てきた。

バイクなので涙はすぐに流れて乾いてしまうので都合が良かった。
擦らなければ跡には残らないし、元から眼は充血していることが多いので変わらない。


人生において疑いなくこれは本当だと思うことが一つ二つと出来てきた。
他人の誰が何と言おうと揺るがしてはいけないことだ。

ひとつは「無理をしてはいけない」ということ。

もうひとつは「どんな人も薄氷の上を歩いていて、少し不運が続くだけで誰でも転落する」ということ。

後者がわかっているから、人は人に優しくなれるのだと思う。


過去を振り返ると、色んな人が「転落」していった。

小学生の頃、少し仲の良かった子は4年生くらいから学校に来なくなった。

中学生の頃、何人かの子が学校に馴染めなくてやめていった。

彼らは周りからは努力不足、我慢不足、やる気がないと呆れられ、馬鹿にされ、去っていった。

彼らは悪くはなかった。
ほんの少しの不運で友達が出来なかったとか、嫌なことがあったとか、単純に体調が悪かったとか、そういうちょっとした不運が続いただけだったのだろう。

私は心のどこかでうっすらと「次は自分の番かも知れない」と思っていた。

高校でも、大学でも、働いてからも、多くの人が「転落」していった。
周りとソリが合わなくなり、去らなくてはならなくなった。
それはどうでもいい場所のこともあれば、自分の最も大切な場所であったこともあっただろう。


人生では誰もが薄氷の上を歩いていて、ふとした偶然で転落してゆく。

ここを出発点として色んな態度や認識が自然に導かれる。

不運な人には優しくする。
不運な時にも優しくしてくれた人がいる。
少しずつでも前に進めばまた良くなる。
自己責任論は間違っている。
人に好かれるためではなく喜ばせるためにやる。
…等々。


やっと長いトンネルの中で、一点の光が見えてきた気がする。

理解しやすい人

今日は久々に外に出た気がした。いや毎日何かしら外出はしているのだが、「外に出た」という気はしなかった。心理的なものだと思う。

夜型になってしまったので、朝方に戻すために起きていようと思ったのだが、気付いたら眠っていて起きたら2時過ぎだった。

気温も上がってきているし、釣りにでも行くかーと思い、夕方から釣りにいった。

1時間ほど竿を出してみたが何も食わなかった。
糸にとろろ昆布みたいな海藻がよく付いてくる。
これのせいで魚が居なくなってしまったのだろうか。
これが無くなった頃にまた釣れ出すかも知れない。


帰って来て風呂に行き、晩ごはんにハンバーグを買ってきて焼いたら、ヘンな匂いがする。どうやらタレ付き焼肉の牛肉を使っているらしい。タレの独特な匂いがする。

食べたら暫くして背中が猛烈に痛くなってきて、20分ほど苦しんだ。やはり鮮度が良くなかったらしい。胃袋が拒絶したのであろう。でもなんとか消化してくれた。


風呂の帰りにバイクを運転しながら考えていた事がある。
他人のことを理解する、と言う。この一言だけでもその内実は色々ややこしい。

個人的な実感としては20代半ば、大学を出た頃から他人を理解することはどんどん難しくなった。

これはあくまでも実感であって、実際は他人を理解する必要がなかっただけ、という可能性が高い。

まわりの大学生は自分と出自も似ているし、合わない人間とは付き合う必要はないし、生活に余裕もあるのでお互いの矢印が相手の方に向きやすいのだ。

大学を出ると、全てが逆転する。
出自の異なる人々と、合わなくても付き合いがあって、余裕がなくお互いに矢印が自分に向いている状態で、他人を理解する。

こんなこと、そもそも無理なのである。
そしてわたしは他人を理解することにほとほと疲れてしまった。
暫くお休みしたいのだ。

しかし、あることに気がついた。
他人から見て、理解しやすい人間であれば、まだ理解することをお休みしていても、まだ付き合いやすいのではないか?と。

理解しやすい人とはどんな人々だろうか。
会社員、投資家、学生、左翼、善人…など
分かりやすいラベルを持っている人だろうか。
いや、ラベルでは中身は何も分からない。

簡単なことだ。
理解しやすい人であるには、ただ正直でありさえすればよいのだと思う。

軽い気持ちで

今日の体調はまぁまぁ。
そろそろ活動できるようになってきたので、無理をしない範囲でやっていく。

今の仕事はあとひと月で終わりにしようと思っているので、それに向けて色々と準備をしなくては、と思っている。

昼間で寝て、温泉に行って、帰りにいつもの唐揚げ屋でもも2本(500円)を晩御飯代わりに買って帰った。


軽い気持ちで何でもやればいい、軽い気持ちで休んで、軽い気持ちで止めればいい、と思ったら楽になった。

軽い気持ちでやったら駄目なのは車の運転と結婚くらいなのではなかろうか。
この辺は軽い気持ちでやるような輩はそうそう居ない。そもそも法的な責任が生じる。

不満だって、軽い気持ちで言ったらよいのだ。
重くなると、どんどん言えなくなって、溜まっていって、爆弾のようになってしまう。

気持ちは軽くやるけども、言葉は重い、行為は重い、というのが一番よいバランスのように感じるけれども、それは簡単なことではない。

先ずは気持ちの軽さからやってみよう、と軽い気持ちで思うのだ。


言葉の重さとはその人の経験と思索から来るオリジナルな世界観を反映したものである。
単に重たい世界観を持っているということではない。重たいだけの世界観なぞただ辛気臭いだけである。

崩壊する社会と言葉

風邪をひき始めてから5日が経つ。
今日はかなり快復した。
身体の痛みが消えてきた。

昼夜問わずだいたい寝ている。
今日はパソコンを出して昔入れたCDを聴いたりしていた。

高校生の頃に集めて作ったアルバムを聴いて涙が流れた。
高校生の頃は真っ暗闇だった。
でも、外にはまともな社会があるのだと思っていた。だが若かったので、そこに折り合いを付けることで苦しんでいた。

あれからおよそ10年が経過した。
まともな社会は急速に崩壊した。
いや、もとから崩壊は進んでいて、それが2010年代から加速した、と言うべきか。

社会そのものがまともでなくなったら、折り合いを付けるという概念自体が脱臼させられてしまう。
自分の生命とプライドをかけて参加するべき社会そのものが失われた。

この先どうなるのか、見当が全く付かない。


社会の変化を捉える一つの手段として、使われている言葉について考えた。

戦後すぐは「飢え」とか「ハラが減った」という言葉はなくなった、と言う。
あまりに事実が明白になると、言葉は無くなる。

現代日本社会から無くなった言葉。そしてその言葉に対応する明白な事実とは何かと考えた。

それは悪意とか、不信とか、不義理といった言葉だろう。
それはもはやどこにでもありふれているので、取り立てて表現されることもなくなっている。

善意がなく、信念もなく、義理もない。
それが現代日本社会の明白な事実である。

それは皆が気付いているはずだが、灼熱の砂漠でそのうち「暑い」と言わなくなるように、わざわざ言葉にしなくなっただけなのだろう。

悪意に満ちた行為によって酷く理不尽な目に遭っても「酷い!」と言うことさえやめてしまった社会。

この先どうなってゆくのか、皆目見当も付かないのである。