自分の居場所は本当に存在するのか
朝のコンビニの前にしゃがんでいる。小雨が降って、ジメジメとした空気にタバコの臭いが合わさって、漂っている。
寝不足の気怠さと雨とタバコ。大学へ向かう人々が次々にバスに吸い込まれてゆく。
自分が亡霊になったような心地がする。
いるのかいないのかもよく分からない。
深く息を吸って、吐いて、生きていることを確かめようとする。
なんだかうまくいかない。
この世界には自分の居場所はない、と感じる。
いや、居場所がある、ということ自体が幻想なのだろうか?
居場所を作れ、という人もいた。
「Aがない」と言うとき、そもそもAというのは存在するのか、本当に求めているのものがAそのものなのか、という2点は確かめる必要がある。
居場所というのは存在しない。
自分がその時、一時的に世界を間借りしている、というしかない。
「自分の居場所」もまた現代の神話、つまり根拠の不確かな信仰なのかもしれない。
まだまだ足りない、満たされない、といって嘆くけれど、それは本当に存在するものなのか。
言葉だけであるような気がしているだけで、中身とか実体は無いんじゃないか。
バスに乗り込んで、ジメジメとした空気から解放されると、いくらか気持ちも軽くサラリとしてくる。
そして、ジメジメとしたさっきの気分が懐かしく思えてくる。
自分の居場所、というのが情緒的な幻想だと思うと、さっきまで求めていたものが散り散りになって、別に求めていたものはそれではなかったような気持ちがしてくる。
それでも何かを求めていることは確かだから、それが何なのか探る。
さっきは居場所というラベルを貼り付けたけれど、それは剥がれてどこかにいった。
寂しいとか、人恋しいとかいうわけでもない。
まだまだ求めてさまようことになりそうだ。