敬意とは何か
今日は天気が良かった。体調も良好。布団のシーツを全て洗って干した。
昼間木刀を降っていたら、隣に住むおばあさんが出てきて半時間くらい話した。
おばあさんは戦前の生まれで、とても立派な人である。
立派な人と話をしていると、自然に敬意というものが自身から出てくるのを感じる。
敬意が出て来ない時、相手があまり立派な人ではないこともあるし、自分が疲れ過ぎている、ということも有りうる。
人間は捻くれて、拗らせている人にはあまり敬意を持てないものだ。
また、自分が心身ともに疲労困憊した状態では、敬意が出てこないということはある。
こういう時は人には会わずに眠ったほうがいい。
どちらにせよ、その時どきに敬意の持てない人とはあまり関わってもよいことはないだろうと思う。
敬意を持たなくてはならない、と思っても、敬意とは鉄砲のタマのようにこめることはできないものだ。
敬意とは何なのだろうか。
それは、お互いに善意を信じている人間の間でやり取りされる何かだ。
子どもに対する敬意というのは、その子が未来を担い良くしてゆく立派な人になる可能性に対しての敬意であろうと思われる。
人間は過去の実績に敬意を払うのではなく、現在そして未来を見て敬意を自然に持つのだろう。
敬意が自然に湧いてくるような状態を保つことが、心の鍛錬と呼ぶに相応しい、意味のあることだと思う。