崩壊する社会と言葉
風邪をひき始めてから5日が経つ。
今日はかなり快復した。
身体の痛みが消えてきた。
昼夜問わずだいたい寝ている。
今日はパソコンを出して昔入れたCDを聴いたりしていた。
高校生の頃に集めて作ったアルバムを聴いて涙が流れた。
高校生の頃は真っ暗闇だった。
でも、外にはまともな社会があるのだと思っていた。だが若かったので、そこに折り合いを付けることで苦しんでいた。
あれからおよそ10年が経過した。
まともな社会は急速に崩壊した。
いや、もとから崩壊は進んでいて、それが2010年代から加速した、と言うべきか。
社会そのものがまともでなくなったら、折り合いを付けるという概念自体が脱臼させられてしまう。
自分の生命とプライドをかけて参加するべき社会そのものが失われた。
この先どうなるのか、見当が全く付かない。
社会の変化を捉える一つの手段として、使われている言葉について考えた。
戦後すぐは「飢え」とか「ハラが減った」という言葉はなくなった、と言う。
あまりに事実が明白になると、言葉は無くなる。
現代日本社会から無くなった言葉。そしてその言葉に対応する明白な事実とは何かと考えた。
それは悪意とか、不信とか、不義理といった言葉だろう。
それはもはやどこにでもありふれているので、取り立てて表現されることもなくなっている。
善意がなく、信念もなく、義理もない。
それが現代日本社会の明白な事実である。
それは皆が気付いているはずだが、灼熱の砂漠でそのうち「暑い」と言わなくなるように、わざわざ言葉にしなくなっただけなのだろう。
悪意に満ちた行為によって酷く理不尽な目に遭っても「酷い!」と言うことさえやめてしまった社会。
この先どうなってゆくのか、皆目見当も付かないのである。