げじげじ日誌

マイ・ワールド

「やりきれなさ」はどこへいったのか

久しぶりに日記を書く。
最近は気分が好転してきている。

将来への不安や過去嫌な思い出の反芻がなくなった。それらを直ぐにやめることが出来るようになった。

「つまらない」と感じるようになった。
今やっていることに注意を払うようになった。

すると、退屈してきた。
今までは不安になったり、過去の思い出を思い返して腹を立てたりしていたので、退屈しなかった。
単に飽きた、ということなのかも知れない。


他人の死や別れに対する感情が昔と今とでは異なっている気がする。
また、似たような所で物語の終わりに対する感情も変化してきた。

昔は漫画など読むと、終わりが近づくにつれて、何ともやりきれない気持ちになったものだ。
また、別れのシーンなどでも同様にやりきれない、悲しい気持ちになった。

その先がなくなる、ということに「やりきれなさ」を感じていたのだろうと思う。
永遠に続いて欲しい、という願いに対抗して、死があり、別れがあり、物語の終わりがある。

永遠というものを信じたいからこそ、やりきれない悲しみが襲ってくるのだ。

今はどうか。
こうした「やりきれなさ」は20代のどこかで投げ捨ててしまった。

今はこうだ。
何事にも永遠というものはない。人はいつかは死ぬ。人と人は別れる。物語は終わる。
これら全ては偶然の産物である。

だが、思い返すと、「やりきれなさ」を失ったら、心の底に「あきらめ切った」感情がすーっと音もなく入ってきた。

「あきらめる」というのは美徳の一つで、いつまでも何かに拘泥して苦しんでいる人にとっては大事な
心の動きである。

だが、あきらめ切ったら、その先には虚無しかない。


やはり人は永遠を信じていなければ満たされて生きることはできないのではないかと思う。