実質と言葉
仕事のミーティングで酔った。
温泉が良かったのか昨晩はよく眠れた気がする。
なので今日も温泉に行って来た。
山に入るあたりから気温がぐっと下がり雪が降り始めた。京都の雲ヶ畑を走ったのを思い起こした。
帰りのことを考えると少し怖ろしかった。
昨日と同じ温泉に入ってのんびりする。
が、何故か今日はのぼせてしまう。
気温が低いから湯の温度が高めになっていたのかも知れない。
帰りの山道は路面に雪が張り付いている所もちらほらあり、1速でゆっくりと下っていった。
ある程度下りると路面は濡れている。
そこからはかなりのスピードで走った。
すれ違う車も殆どない。
スピードを出しているのと、寒さで余裕がないため、考えごともなく、感じることも特になかった。
温泉から帰ったら港へ釣りに行こうと思っていたが、あまりに寒いので諦めることにした。
仕事についてはそれなりに言いたいことがあった。
だが遅すぎたのかも知れない。
何も変化はないだろう。
実質のないものは一時はうまくいったとしても長期的には失敗する。
いくら口で「○○は素晴らしい」と言っても、○○は素晴らしいかどうかは個々の心の中であらかじめ決まっている。
言葉ではなく、実際に行われていることが人の心に響く。言葉では頭はごまかせても心はごまかせない
。
見定めの付かない心の中のぐちゃぐちゃとした動きがある。それを無視して外から言葉を押し付けても、フィットするはずがない。
実質とは存在して、変化して動いているものだ。
心の中の動きも実質だし、組織での人の動きも実質だ。
問題は頭の中のイメージにある。イメージは実質ではない。イメージは常に変化し動くものではなくて、固定したものだ。つまり実質ではない。
実質とイメージの区別が付かなくなるほど混乱すると、実質を見てもイメージがそれを覆い隠してしまう。
イメージは感情を誘起する。この感情はスイッチで着いたり消えたりする電球のようなもので、心の中の動きとは何の関係もない。
ただ、感情によって大きな運動が起こることもある。ただこの場合他人の身体を動かすことはできても、心の中を動かすことはできない。