ひとと仲良くなること
2日連続で書いた日記を保存しないまま消してしまった。
書いてる内に眠ってしまい朝ブラウザごと消してしまった。
別に大したことは書いていないので特に問題はないのだが…。
今日ツイッターを見てたら昔読んでいたナンパブログの最新記事があって、久々にブログを読んだ。
筆者は京都でナンパ講習をしていた人で、講習に行こうか行くまいか悩んでいるうちに講習自体をやめてしまったらしいのでその後はフォローしていなかった。
ナンパ講習といえば如何わしいが、言い換えれば社交術である。知らない人に声を掛けて、仲良くなる技術。
その成果を証明するものがセックスという分かりやすい価値(とされているもの)だということになる。仲良くなる、というのが目標ではそれが達成されたかどうかあやふやなので、セックスという価値に置き換えて評価する。
今日久々にそのブログを読んでいて、なぜナンパ講習に行く気にならなかったのか分かった。
人と仲良くなるということは本来自由で、楽しい、善なるものではなかったか。
仲良くなる、ということは無機質でシステマチックな手段や目的には還元できない。
手段や目的になってしまえば、仲良くなるということの善性が失われる、と思った。
ようは他人と仲良くなる前に、自分自身や世界と和解し仲良くなることが先だと思った。
もっともそれは順番が違うだけで、行き着くところは同じことなのかもしれないが。
呼吸をするのは呼吸が目的だからでも、呼吸が手段だからでもない。生きるための手段だと思って呼吸している人などいない。また嫌な臭いがすれば息を止めるし、水の中では呼吸はしない。
人と仲良くなる、というのもそのようなもんじゃなかろうか。
仲良くなること自体が善と感じるようになったなら、仲良くなる方法などをいろいろやってみることはいいことだと思う。