げじげじ日記

私の世界

反省

反省、というものをしたことがない

だが、今からやることは反省というのかも知れない


心の表面に何枚も重たい板が無造作に積み重なっていて、一枚を持ち上げて取り除こうとしても上に乗っている板が邪魔をしてなかなか取り出せない

反省、をしようとするとそんな感じがする
よく見て、取り除きやすいものからどけていくしかない


今は、それほど長くもない人生の中でもいちばん自信を失っている時だとおもう

もっとも18を超えるまでの人生には自信というものが定義できない
自信、を必要としないライフスタイルだったからだ

高校を卒業してから、わたしはあらゆることに失敗した

失敗とは個々のイベントの成否ではなくて、それが自分にとって良いものであったか、ということだ

大学選びに失敗し、友達付き合いに失敗し、恋愛に失敗し、サークルに失敗し、アルバイトに失敗した

細かく見ていけばあの時はうまくいっていた、ということも、ないわけではない
満たされた気分で朝を迎えたこともちゃんと覚えている


起こったことの全体について、何が悪かったのか、を描き出すのは容易ではない

たいてい自分という円の外を見て、あれこれと理由を考えるものだし、社会ではこれが出来なくては病気になる

例えば、他人の機嫌が悪いのを常に自分と結びつけて、原因が自分にある、などと考えいればすぐに頭がおかしくなる

だが、こういう心の習慣を持っていることの責任は自分にある
習慣を取り除く努力をするのは自分である

こう考えるとき、そこには自分という円の内側しかない


反省とは過去の失敗から自分を自分で救い出すためのものだとおもう

「わたしは人生に失敗している」と感じながら生きていくのは、とてもつらい

反省はひとりで心の中から望んで行われるものであって、組織や社会の要請で行われるようなものではない



何が悪かったのだろう
わたしは他人がしたことではなく
起こったことについて
自分のしたことだけを覗き込む
失敗の印象の強いことについて
わたしは実際に何をしたのだろうか
何ができなかったのだろうか

わたしは何もしなかった
ひとの誘いがあった
一番近くにあった船に乗った
それはわたしにとって最悪ではないものの
必ずしも良いものではなかった

わたしは船からなかなか降りることができなかった
船はどんどんわたしの見ているところから遠ざかっていった
船の行き先には興味がなかった
なぜみんなで同じ場所へ行かなければならないのか
と思った

わたしは船の中で何もしなかった
しようがしまいが船はわたしを連れて行くのだから
それほど行きたくはない場所へ
ただ、どうしてもやらなければならないような気がして、誘われたことをやっていた
楽しいこともあったが
だんだんそれはつらい作業になっていった

わたしは自分自身に言い聞かせていた
これはわたしの選んだ道だと
喜びも苦しみも他の誰のものでもない自分のものだと
苦しくなってきてもなかなか降りることができなかった

わたしはどんどん吐き気がしてきてついに船を飛び降りた
わたしは挫折した
わたしは同じ船に乗っていた人々を恨んだ
彼らのせいでわたしは狂ったのだと
正気を失ったのだと
また自分のだらしなさ、情けなさに腹がたった
しかし自分を責めても虚しいだけだった


わたしは船に乗る前の日記を見つけてそれを読んだ
書いてある言葉の意味がわからない
船に乗る以前からわたしは正気を失っていたらしい

だから船に吸い寄せられるように乗ってしまったのだろう
船に乗ったことで狂気が表に現れただけで、それ以前から既にわたしは狂っていた

わたしが狂ったのは誰のせいでもなかった
わたしの中に既に狂気は存在した

わたしが狂ったのはなぜか
今なら分かる気がする

わたしは人生と対人関係に悩んでいた
言葉とコミュニケーションについての本を多く読んだ
ワークショップなどにも参加した
わたしの知識はどんどん増えていった

わたしは自分の体験したことやじぶんのしたこと、できなかったことを語る言葉を持たなかった

だから、わたしは体験をわたしが本やネットから仕入れた既存の言葉に当てはめていた
この体験と言葉の間の隙間から狂気が生じたのだとおもう

わたしの頭の中には常に「他者性」とか「つながり
」とかいった言葉とそれらについての膨大な知識が巣食っていて、体験は全てそれらの為の材料でしかなかった

事実は客観的なことで、体験は主観的なことだ
わたしは体験しているものが
「一体何であるのか?」
「どういう意味があるのか?」
と考えていた

体験、を自分のことばにできなかったことが
狂った原因なのだとおもう

不自由なアタマ

腹が減った
憂鬱で何も作る気がしない

何もやりたくない
けど、焦っている

閉じこもっている


なにもかもわたしに無関心なこの世界で
わたしは自由ではない

全てが停止した部屋
自由は何処にある
わたしもきっと停止した
ゆいいつ動いているのは
わたしの心臓

わたしがわたしの時間を得る前の自由は
この中で好きにしてもいいよ
というやさしいもので
時間を得た後の自由は
得体の知れない
何を考えているのか分からないものだ

自由だから
何もしない
自由だから
何かしなくてはいけない

こんな声がアタマの中をぐるぐるしている

こんなことを腹を減らしながら綴るのも
自由だからなのだが

自律という言葉がある
素晴らしいことだが
人生にはつきものの事故というやつで
ハンドルもブレーキも効かなくなった
アクセルはよく分からない

時間があれば
自由があれば
好きなことをずっと思っていられるか
と思ったが
実際には
好きでもないことばかり考えて
いらいらして
何もやる気がしない

自由でない、というのはこういうことだ
時間があるとかえって
いろいろなものが吹き出してくる
好きではないもの
考えたくないもの
止めることが出来ない
居場所のないさまざまな感情が
着いたり消えたりする

腹が減るというのも
考えてみれば人間の不自由のひとつだ
好きでないことばかり考えてしまう
止められないというのも
それに近い

何かを食べれば空腹は収まるが
考えてしまうということは抑えられない
抑えたくはない

嫉妬と羨望は慎みたいと思っている
良い頭
良い顔
良い身体
良い生活
ないものを羨むのは馬鹿馬鹿しい

これらは誰にとって「良い」ものなのだろう
と思うと
バカらしくなってくる

何が面白いか

何の才能もない、と思うことがある

才能、というのは表現されることで存在が確認される
表現されないところに才能はない

ところがその表現というやつがどうにも苦手だ
人に見せたくない、というのではなくて、自分でも見たくないという感じに近い 

形を持たせることが怖い
曖昧なままにしておきたい
そんな気持ちがある


自分で面白いと思う何かを作ることができない

今書いているこの文章にしても、全く書いていて面白いものだとは思わない

世の中には面白いと思う人も面白いと思うものもたくさんあるのに、自分からは何もそういうものが出て来ない

道端に落ちている犬のうんこを眺めていたほうがまだ面白い
と言ったら言い過ぎだろうか

はあ…
どうすればいいんだろう…

一切仕事をしていないので、時間が膨大にある

だけど、何もやるべきことがない
とても苦しい

どこかに仕事をしている方がよっぽど楽な面もある
もちろん辛い面が多いからやらないことにしたのだけど


他人が面白いと言うかどうかは分からないが
少なくとも自分が面白いと思うものが作れなければ
作る意味は無い

取り敢えず今書いているものは読んでいて全く面白くない
暗すぎる
後ろ向きだし
気が滅入るばかり

もっと明るいものが読みたい
いや、明るいだけではだめで
落ち着いたやさしさのあるものが読みたい
そしてどこか虚無の匂いのするものが読みたい
 
木のような優しさ
木はわたしに何の関心も持たない
放っておいてくれる
それが木の優しさだ
そういう優しさのある物語が読みたい

むしろわたしは自分が木になってしまいたい
という気もする

わたしは人間に生まれてきたものの
あまり人間には向いていなかったらしい
ことばが不得手なものは人間に向かない
特に今のような世の中においては


なんの話をしていたんだっけ
才能がない、という話だったか

本当は才能なんてどうでもいい
才能なんかなくてもいい
自分が面白いと思うものが作れたら
外のことなんかどうでもいい
意義とか意味とか価値とか
一切要らない

こころ

日常のいろいろな場面で
私には語ることばが無い、ということが
よくある

ことばを語っても
ただ悲しみが増すだけ
という気がして
開いた本を閉じるように
こころの中の
何かが閉じられた

閉じられたものは半透明なゼラチンの塊となって
ぎゅっと圧縮して何かを読み取ろうとしても
こころに壁も底もないので
つるつるとどこまでも滑ってゆく


ことばは無くなり
悲しみが増すこともなくなった

以前、とても悲しいことがあった
そして、未だにわたしはそれを語ることができない

こころの底が抜けて
こころを支えていたものが
何もかもが流れ出てしまった

想い出は意味を失いただの事実の記憶になった

わたしは成仏できない幽霊のように、この世界から浮いた存在となって、通り過ぎてゆく人々を眺めている

幽霊というのは人間のうちのある状態のことであったのだな、と分かった


わたしは怖れについて語った
次は悲しみについて語らねばならない

死体のことば

外のものについて何ひとつ言うべきことがない

愚痴や
文句や
賞賛や
質問も
何も言うべきことがない

発散したいことも
繋がりたいものも
知りたいこともない

日本語で「なぜ」と問うことの不毛さ
理由を知ってももはや全ては手遅れなのだと
日本語の全てが言っている

日本語で「なぜ」と問うとき、それはもはや
状況への愚痴と文句と
「私は悪くない」という自己弁護に他ならない
英語の「Why」とは異なり
ものごとの理由を問うためのものではない

日本語は正気を失った
正気を失ったということを認識できないほどに

われわれのほとんどは
コミュニケーションという名前の
言語による情報のやりとりをしていることになっているが
実際に行われているのは
ただの話しであって
そしてほとんど話しは行われていない

わたしから生きた言葉は出てこない
死体の言葉を手渡して何になろう
「死んでいる」ということは分かるが
「生きている」ということは分からない

何かを喋るとき、わたしは頭の表面の凹凸をなぞり
口からそれを死んだ言葉として出すのだ

本当は何も話をしていない
生きた言葉は失われたままだ

怖れ

毎日、いつも心を縛り付けている何かがある
それが怖れだと気づいたのはいつだったか

それは心臓の表面に薄く張り付いて、心をいつも締め付けている

心の中から出てくるものを遮り、また心の内部を探ることを不可能にする

何を怖れているのだろう
それはいつからあるのだろう
心の内に問うてみる
だが締め付けられた心からは何も返答がない

それは死か
それとも生か
それとも他者か
社会か

話の通じない人々かも知れない、とふと思った
そんな記憶が様々に思い出されてくる

話を聞く気のない大勢の人々の目を前にしてわたしは立ちすくむ
話をしなければならない立場というのは奇妙なものだ
話を聴く気のない人に何故話さなければならないのか

わたしは分かって貰おうと必死に話す
だが離れて冷たく座った目たちはこちらに歩いては来ない

分かって貰いたいと考えるのは過ちであったか
力ずくで分からせるしかなかったか
分かるのはその人だが、自然な帰結として分かるような状況というのはあるし、無理やりそれを作り出すこともできるだろう

話が逸れてきてしまった
そう、何を怖れているのか、ということだった

まな板の上の鯉のように、斬られるのを怖れている気もする
斬ろうとしてくる大勢の目
こちらから斬り返されるということは全く想定してもいないような、怖れてもいないような、サディスティックな目付き

沢山の目たちの前で神経は高ぶり、声はぶるぶると震える

怖かったが、逃げることは許されなかった
怖い上に、やりたくもなかったのだから、怖さは克服などできるわけがなかった

恐怖はやがて身体に固定され、心は縛り着けられてしまった
その前に逃げるべきだった

恐怖を感じたのを感じていないようなふりをして、ごまかせば、それは何処までも追いかけてくる

恐怖はきちんと感じて、認識しなければならない

ことばを持たない魂

どうでもよいことだが、ブログのタイトルを日誌から日記に変えた
初めは日々の出来事をだらだらと書くつもりだったから日誌でよかったが、最近はさういうことは書かないから日記の方が妥当だと思った

ことばを持つということはことばを知っているということとイコールではない
わたしはことばを知っているがことばを持たない

どういうことか
例えば「嬉しい」ということばをわたしは知っている
だが、「嬉しい」ということばは持っていないので、「嬉しい」と言うことができない
「嬉しい」と言った瞬間にそれが嘘になってしまう

わたしの感じていることは大まかに言えば「嬉しい」なのだが、そのものではない
「悲しい」や「恥ずかしい」やら様々なものが混じり合って混沌としていることがほとんどだからだ

もはやそれは「嬉しい」とは言えない
適切に言い表すことのできない感情だけがある

自室にひとりで寝転がり、動くことさえもしんどいことがある
虚しい、とは思わない
うんざり、に近い

本当のところは虚しさで心の中はいっぱいなのかも知れない
満たされてそれが普通のことになると、感情はことばにならなくなる

あらゆることが、手遅れで、どうにもならなくなった
最初は虚しいと感じるが、その現実の中で生きていると、虚しささえもなくなる
ただ心を殺して生きる他ない