げじげじ日記

私の世界

虚無

虚無がある。全てが虚無の中にある。

その虚無を埋めるために、生の充実で埋めるために、何かをする。

酒をのむ、博打をする、人と会う、走る、山に登る…

しかし、虚無は決して満たされることはない。

虚無は消えることはない。

虚無の中で生きるとき、そのしんとした空間でしか受け取ることのできない揺らぎがある。

人は死ぬ。充実としての人は死ぬ。

だが、揺らぎとしての人は決して死なない。

揺らぎは伝わってどこまでも残る。

決して消えることはない。

虚無を満たそうとするな。

虚無の中から生まれる揺らぎを見つめよ。

自分の居場所は本当に存在するのか

朝のコンビニの前にしゃがんでいる。小雨が降って、ジメジメとした空気にタバコの臭いが合わさって、漂っている。

寝不足の気怠さと雨とタバコ。大学へ向かう人々が次々にバスに吸い込まれてゆく。

自分が亡霊になったような心地がする。
いるのかいないのかもよく分からない。

深く息を吸って、吐いて、生きていることを確かめようとする。
なんだかうまくいかない。

この世界には自分の居場所はない、と感じる。
いや、居場所がある、ということ自体が幻想なのだろうか?
居場所を作れ、という人もいた。

「Aがない」と言うとき、そもそもAというのは存在するのか、本当に求めているのものがAそのものなのか、という2点は確かめる必要がある。

居場所というのは存在しない。
自分がその時、一時的に世界を間借りしている、というしかない。
「自分の居場所」もまた現代の神話、つまり根拠の不確かな信仰なのかもしれない。

まだまだ足りない、満たされない、といって嘆くけれど、それは本当に存在するものなのか。
言葉だけであるような気がしているだけで、中身とか実体は無いんじゃないか。


バスに乗り込んで、ジメジメとした空気から解放されると、いくらか気持ちも軽くサラリとしてくる。

そして、ジメジメとしたさっきの気分が懐かしく思えてくる。


自分の居場所、というのが情緒的な幻想だと思うと、さっきまで求めていたものが散り散りになって、別に求めていたものはそれではなかったような気持ちがしてくる。

それでも何かを求めていることは確かだから、それが何なのか探る。
さっきは居場所というラベルを貼り付けたけれど、それは剥がれてどこかにいった。

寂しいとか、人恋しいとかいうわけでもない。

まだまだ求めてさまようことになりそうだ。

気力を保つには

今日、ツイッターを見ていたら、気分が落ち込んでいることに気づいた。

事件についてごちゃごちゃと議論しているのを見た。
いや議論になぞなっていなかった。

まっとうな一つの意見に馬鹿馬鹿しい意見が幾つもついている。

すっかり気分が滅入ってしまった。


弱っている、と感じた。
弱っていなければ何ともないようなことが、弱っているから、残り少ない気力がすり減る。

弱っている、と思うとツイッターをするのがしんどくなってきた。
暫くやめようと思う。

気力だけが頼りの状況で、とにかく少ない気力を減らさないようにしながらやっていかなくてはならない。
無駄なことに気力をすり減らす余裕はないのだった。

思えばむやみに気力をすり減らすようなことばかりに惹きつけられてきた気がする。
一種の自傷行為だったのかもしれない。


気力を奪うようなものばかり見ていたら、気力がすり減るのが自然な反応に決まっている。

逆に気力を増すようなものばかりを見ていたら、気力が増すのが自然な反応になる。

無理に気力を捻り出そうとしても鉄砲の弾をこめるのとは訳が違う。
気力を奪う、気が滅入るようなものから遠ざかること、これから始めるしかないのではないか。

非モテ男とちやほやされたい女

非モテ男とちやほやされたい女は、集団で同じ病気に罹った者達だと思う。

非モテ男とは女を喜ばせることに自信がなくて、
女の言う事を全て聞いてやらなければならないと思い込んでいる男たちのことである。

ちやほやされたい女とは、いつも不機嫌で、他人が自分の気持ちをタダでマッサージしてくれることを期待している女たちのことである。

彼らは共に、精神における下層市民の男女である。
彼らは異性に対して常に不機嫌であり、不信感を持っている。
この病気は他人には癒やすことはできない。
むしろ同類の者たちの間で病気は酷くなる。
以下に自己治癒のための努力の方法を記す。

非モテ男は、自分が機嫌をとれそうもない女を相手することをやめるべきである。
機嫌をとれる相手に集中して、自信をつけるのが先決である。

ちやほやされたい女は、他人を喜ばせるということを学ぶべきである。
喜ばせたいと思うような男をまず一人見つけるべきである。

以上。

信じる

朝起きると心臓が苦しい。またか、と思う。
暫く、だいたい1時間もすれば治まる。
初めは日記を書けば治まると思っていたが、そういうわけでもなく、何もしなくても時間が過ぎればそのうち治まるらしい。

苦しくなっている間に色んなことを考える。それがいいのかも知れない。考え尽くせば治まるのかも知れない。こんなに苦しいのはもうやめよう、無理はやめよう、ということをいつも考える。


昨晩は信じるということについて考えていた。
信じるとは何か根拠があってやることでも、自然にしていればそうなるものでもなくて、一種のコツというか、意識してやってゆくものだと思った。

何かがあってその結果信じるというのではなくて、まず信じるということが先にある。

さて、どうなるか試してみよう。

身体の中の矛盾を解消するには

身体の中に痛み苦しみがあって、藻掻いてきた。

原因は外部のストレスであった。仕事や人間関係でのストレス。

その時身体の中では相反する動きがお互いにぶつかり合い、疲弊し、内部でどんどん消耗してゆくのだ。

そして外側にあるストレスの源そのものをどうにかすることに費やすエネルギが枯渇する。


どうしたらいいのだろうか?

わたしは一つの解決手段に気付いた。

身体の中の相反する動き、身体の中の矛盾を解消し、完全な一つの肉体に至る。

まず身体の中から癒えてゆくというやり方である。


完全なる肉体をイメージして、身体の中の矛盾を取り除いて苦を減らし楽になってゆく。

とにかく身体の中の滞り、淀み、おりを溶かしてゆくようにイメージをしてゆく。さらさらのきれいな水になるようなイメージ。

なんとかなるかもしれない。

感受性を取り戻す

ひと月ぶりにこの日記を開いた。

今年度の仕事が始まってから、忙しくはなかったのだが日記を書く気にはならなかった。

ひと月しか経ってはいないが、最近は安定している。
以前よりもよく眠れるようになってきているし、背中の痛みもマシになってきている。

病院にはいくつか行った。
ハッキリとした病名はない。


日記を書く時は自分自身の中を覗き込むようにして書く。
これが身体にとって良いのか悪いのかはよく分からない。

神経に集中する、というのはやり過ぎるとあまりよくない。
感覚が内向していって、息が詰まる。
外部との間に殻が出来てしまう。
神経に集中するということは、身構えるということでもある。自由ではなくなる。
本来神経は自由で、何も感じないのが良い。

神経を自由にする、ということは当面のテーマの一つになると思う。

身構えている、という感覚が分かれば、その対極もそのうち分かるようになる気がする。

身構えて神経を集中させることは、感受性を高めることを意味しない。
感受性を高めるとはむしろ神経を集中から解放し自由にさせることである。

自分のやっていることはおそらくは神経症の克服のプロセスなのだと思う。

とにかく身構えを解き、神経を自由にして、楽になる感覚を掴みたい。
これはあらゆる感受性の起点であると思う。