身寄りがない
今日は天気が良かった。温泉に行く途中バイクで側溝に突っ込んで、足首と尻を痛めてしまった。
コケて直ぐはめちゃくちゃ痛くて、暫く動けず草むらで寝ていた。
メガネが無事だったのを見て安堵した。
何とかバイクを側溝から出して、山道を下り病院まで辿り着いた。
帰るのに誰も車で迎えに来てくれそうな人がいなかったので、タクシーを呼んだ。
身寄りがない、というのはこういうことなんだな、と思った。
頼りにできる人が一人もいない。
それは京都でも一緒だった。
最近どうもシャキっとしない。
正気を失っている気がする。
不本意な生活をしているとは思う。
そのせいなのだろう。
カリカリするのを気付いたら直ぐにやめるようにしたら、気分の落ち込みが少なくなった。
これはやる価値がありそうな気がする。
カリカリするなよ
今日は天気が良かった。
隣のばあちゃんの犬猫とグダラグダラと遊んだ。
リラックス、というのを随分忘れている気がする。
前もこんなことを思ったような。
あれは一昨年の秋だったか。
2年ぶりくらいに女の子とデートをした。
久しぶりに「遊び」「休み」というムードを感じて、溜息が出た記憶がある。
「休み」とは単なる無色透明な空白のことではなくて、感触を持ったムードのことなのだ。
ムードから離れ過ぎていると、感触そのものを忘れてしまう。
何故こんなに張り詰めて生きているのだろう。
張り詰めていても、うまくいくわけでもないのに。
起きていても寝ていても遊びや余裕がない。
いつからこんな風にカリカリするようになってしまったのだろう。記憶では、3年前くらいからではなかろうかと思う。
こういう風に過去を振り返ることも昔はあまりなかった。ここ1年くらいやたら多い。
こうした習慣もカリカリするようになってからのものだ。
時間が解決する、ということもある。
「カリカリするのをやめよう」と決めたら、その火から解決へのタイマーが進み始めるのだと、そう思いたい。
■
最近の体調は一進一退という感じ。
寒くなるとやはり落ち込みやすい。
フェイスブックやyahooのアカウントに不正ログインされているようなので、各種パスワードを入れ替えた。
ついでにミクシィも久しぶりにログインして、過去の日記を見てみた。
6年前くらい、23歳の頃の日記を読むと、まーびっくりする程バカなことしか書いてない。
ノーテンキで、頭でっかちで、調子こいてたガキであったのだな。
最後の日記が2011年3月だから、丁度6年前。
それから6年間色々なことがあったなぁと思う。
行き当たりばったりで何も計画なんかしてないから、思いもしなかったようなことばかり起こった。
しかし方針のようなものはあった。
全てバラバラに壊して分解してみたかったのだ。
自分も、世界も。
その衝動のせいで色んな人に迷惑をかけた。
だいたい人は作って大事にしたがるけど、それを壊そうとしてしまうから。
とうとう自分自身をバラバラにしてしまって、自分が何をどう感じているのかさえも分からなくなってしまって、途方に暮れた。
もちろん他人のことなどまーったく分からなくなってしもうた。
自分自身のことさえ分からなくなってしまったのだから、他人のことなど分かるわけがない。
面白いことに、人は自分自身のことが分からなくなるほど、自分自身のことを他人から隠さなければならなくなるらしい。
こうした副産物のような発見は沢山ある。
でもそろそろ壊すのも終わりにして、作り始める時期なんではないか、と思った。
加齢と幸福
今日も風邪っぽくて怠い。口の腫れが治らない。
一時的に良くなったり悪くなったりを繰り返しているが、全体的には少しずつ悪くなっていっている気がする。
良くなった時には「大丈夫!」と思えるのだが、悪くなった時にはそんな気持ちは全部どこかへ飛んでいってどこにもない。
だんだん「大丈夫!」の気持ちも薄れていって、ただ冷静に「もうこんなことはやめよう…」という平静とした気分になってきた。
自分の中で何かが終わったのだと思う。
元気は全く出ない。
無い、というのではなくて、出ない。
何もかも尽き果ててしまったという感じ。
どこか納得がいかない、という感じがあって、それで何もやる気が起きない。
大人ならば納得がいかなくても飲み込んでやらねばならないこともある。
だけど、何もかもそれが出来る訳ではない。
そして出来たとしてもしょぼい仕事しかできない。
この先に将来がないと感じていて、目下の利得もなく、ただやることの楽しみもない仕事を懸命にはできない。
ちゃんと力を尽くして仕事をしたい、という気持ちが強くあるのだと分かる。
年齢を意識することが増えた。
一年の持つ手触りのようなものが変わった。
何も成さず、ダラダラとしていることに焦っている。
身体は年々弱くなってゆく。
頭も働かなくなっていく。
普通に就職していたら、毎年給料は上がるし、仕事も色々出来るようになっていって、年齢を重ねるということと、そうした現象が一致して、歳を取ることの手触りが違うのだろう。
組織に属している人はそういう歳の取り方をする。
組織が歳の取り方をある程度規定してくれる。
自分のやり方で歳を取ってゆくということに不安がある。
ただ毎日楽しければよし、という歳の取り方はなかなか難しい。
何もしなくても幸せ、というのが難しいのだ。
「歳を取る」ということと「幸せ」はぐちゃぐちゃと入り組んで絡み合っていて、複雑である。
幸せになるために、人は何かをしなければならないのだろうか?
「いま」は未来の幸せのための敷石でしかないのだろうか?
本当は、人は幸せになるために何かをしなくちゃいけない、ということはない。何もする必要はない。
おそらくこうだろう、と思っている。
それでも不安はなくなることはない。
どうでもよいこと
なかなか風邪が治らない。唇の荒れや口内炎が酷くて、口が全体的に腫れぼったい。
ほとんど何もやる気が出なくて一日寝込んでしまった。
鬱病なんではないかと思うことがある。
最近はどうも眠っている時の呼吸がおかしい。
胸が詰まっているような感じがして、苦しい。
気持ちを軽くしないと、また気持ちがどん底に戻ってしまいそうな気がして怖い。
今日は殆ど寝ていた。
夕方からうつらうつらとしてきて、気づいたら眠っていて、夜8時前に意識が戻ってきた。
涎を垂らしていて、頭の中がボーッとして、自分が誰なのかここが何処なのか、何も分からなくて心地が良かった。
朝起きて直ぐに、自分の事が分かるというのは全然面白くない。
それは現実が全く面白くないから、というのもあるが、現実を認識することの連続自体から逃れたいという気持ちもある。
もうどうでもよくない現実に飽き飽きしている。
何もかもどうでもいい瞬間こそ至高だ。
そう、本当は何もかもどうでもいいのである。
「どうでもよくないもの」に「どうでもいい」と言っているのではなく
「あれはどうでもいい」「これはどうでもよくない」と常に評価、判定することを免れたいと思っているのだ。
会話の分析
今日朝起きたら口が荒れていた。 下唇の内側に口内炎ができていた。
この3年ほど風邪もひかず口内炎もできなかったのだが、体質が元に戻ってきたのだろうか。
人間の身体は環境によって体質が変わる。戦場、強制収容所、刑務所などの体験談をいろいろ読んでいると、そういうものをちらほら発見する。
友達とメールをしていてふと自分がアドバイスをしようとしていることに気付いた。
意識的にではなくて、パッと思いつくことが殆どそれしかないのだ。
つまり自分自身にある態度があって、そこから取り出せるものはすべからく何らかの形式のアドバイスめいたものになってしまうのだ。
これは何だろう?と自問した。
昔からこうだったのだろうか?
この人や一部の人に対してだけこうだったのか?
考えてみると年上の人にアドバイスをすることなどない。
自分の中で何らかの態度を使い分けているのだろう。
職業病だろうか?ものを教えている内にアドバイスをするクセが付いてしまったのだろうか?
ああしたらいい、こうしたらいい、ばかりでは面白くはない。
よく相手の話を否定して話を始める人がいるが、あれと大差ない。
指導してやろうとか、治してやろうとか、教えてやろうとかいう気持ちで、友達と会話はしたくない。
そう思い、メールを書き直した。
普段、会話の内容を分析したりはしなくて、ただ思った事を言っているつもりだ。
けれど、そこに固着した態度のようなものが在ると、あまり会話は面白くはないと思う。
話題に興味があればまだいいけど、話題への好奇心と会話の楽しみとは違う。
ずーっと上から目線でアドバイスするだけ、自慢話するだけ、否定するだけ、質問するだけ、相槌を打つだけ、ではお互いに会話に退屈するに決まっている。
話題への好奇心がなければもう最悪である。
どちらが悪いとかではなくて、態度が固着化しやすい相性というものがあるのだろう。
二人ともその役割が好きで受け入れているのならそれはそれで問題ないのだろうけど、自分はあまり楽しい会話だったとは思わない。
話をするだけのことを、難しく考え過ぎなのかな。
そうだと思ったらそうだと自分の言葉で言い直して、違うと思ったら自分はこう思うと言えば良いだけのような気もする。
うーん、錯綜してきた。
たまには分析も必要、くらいの結論が落としどころ、だろうか。
使命と良心
昨日の晩は風邪がぶり返して苦しかった。
むしろ今までのは風邪気味程度で、これが本番だという感じだった。
気持ちが悪くなって夕飯を全部戻してしまって、布団の横に洗面器とタオル、お茶を用意したら気持ちが楽になった。
一人暮らしで風邪をひくと凄く心細い。
これは経験した人でなければ分からないものの一つだと思う。
薬を飲むのは嫌だったが、あまりに苦しいので葛根湯を飲んだらかなり楽になった。
何故か葛根湯を飲んだ後から屁がたくさん出て、布団の中から異臭がしていた。
一人暮らしを始めて10年になる。心細いと思うことは殆どない。
人生のおよそ3分の1ということになる。
これがどう増減するのか今のところ分からない。
毎日色んなことを考えるけど、特に何もしていない。そのことに少し引け目がある。
思い返せば、大学のサークルでもあまり中心になってやったりはしなかった。
一番部室に入り浸ってたのに。
活動、というのが嫌いなのだと思う。
自分で計画して準備して人を招いて、というのは好きだけど、こういう事を皆でしましょう、となると
ヒエラルキーの臭いがしてきて、上にも下にも立ちたくはなくて、シラケてしまう。
まぁそれでもモブとして楽しくやるんだけど。
人の上に立つ、なんてやりたくない。
でも何もせずに口だけ出すのもやりたくはない。
人の上に立とうとしなかったことのツケを払わなければならないかも知れない。それも嫌だなあ。
今日の昼に考えていたこと。
自分のやるべき事がハッキリしたら、人生は相当楽になるだろうな、と思った。
やるべき事というか、自分の求めているものと言うべきか。
自分と他人を比較したり、自分は何てダメなんだと落ち込んだり、どこまでも「自分」のことばかり考えて、不安になって…というのは、大抵自分の求めているものを知らないからだ。
就活らしきイベントに参加してた頃、誘われて訪問した会社の社員がやたらと「使命」という言葉を使っていたのを思い返す。
その会社はとんでもないブラックで、離職率がバカ高いという情報がネットでは流れていた。
会社で働くことが「使命」だなんて、嘘っぱちだと思う。
「その会社は本当に世の中を良くしているのだろうか?」
という自分の良心に基づいた批判的な視座がなければ、せっかくの「使命」も根っこのない、何でも入れられるガラクタ箱みたいなものになってしまう。
そして、普通会社と呼ばれる場所で働いていれば、良心に反する事をいくらでもしなければならなくなる。
そもそも「世の為人の為」だって、嘘だと思う。
「使命」なんてものがあるとすればそれは個人的なもので、それが追求された結果、他人の役に立ったり、感動を与えたりするのではないか。
世の中や人様を治そうだとか、修正しようだとか、そういう志はちょっと暑苦しい。
「世の為人の為」に人間をガス室に送り込むことを使命とした人々のことを忘れてはいけない。
何とも頼りない、個人的な良心だけがそれを阻止する力を持っている。
少し説教臭くなってしまった。
もう6年以上経つけれど、あの社員さん、まだあの会社で勤めてるんだろうか。少しだけ気になる。