げじげじ日記

私の世界

どうでもよいこと

なかなか風邪が治らない。唇の荒れや口内炎が酷くて、口が全体的に腫れぼったい。
ほとんど何もやる気が出なくて一日寝込んでしまった。

鬱病なんではないかと思うことがある。

最近はどうも眠っている時の呼吸がおかしい。
胸が詰まっているような感じがして、苦しい。

気持ちを軽くしないと、また気持ちがどん底に戻ってしまいそうな気がして怖い。


今日は殆ど寝ていた。
夕方からうつらうつらとしてきて、気づいたら眠っていて、夜8時前に意識が戻ってきた。

涎を垂らしていて、頭の中がボーッとして、自分が誰なのかここが何処なのか、何も分からなくて心地が良かった。

朝起きて直ぐに、自分の事が分かるというのは全然面白くない。

それは現実が全く面白くないから、というのもあるが、現実を認識することの連続自体から逃れたいという気持ちもある。

もうどうでもよくない現実に飽き飽きしている。

何もかもどうでもいい瞬間こそ至高だ。
そう、本当は何もかもどうでもいいのである。

「どうでもよくないもの」に「どうでもいい」と言っているのではなく
「あれはどうでもいい」「これはどうでもよくない」と常に評価、判定することを免れたいと思っているのだ。

会話の分析

今日朝起きたら口が荒れていた。 下唇の内側に口内炎ができていた。

この3年ほど風邪もひかず口内炎もできなかったのだが、体質が元に戻ってきたのだろうか。

人間の身体は環境によって体質が変わる。戦場、強制収容所、刑務所などの体験談をいろいろ読んでいると、そういうものをちらほら発見する。



友達とメールをしていてふと自分がアドバイスをしようとしていることに気付いた。

意識的にではなくて、パッと思いつくことが殆どそれしかないのだ。

つまり自分自身にある態度があって、そこから取り出せるものはすべからく何らかの形式のアドバイスめいたものになってしまうのだ。

これは何だろう?と自問した。
昔からこうだったのだろうか?
この人や一部の人に対してだけこうだったのか?

考えてみると年上の人にアドバイスをすることなどない。
自分の中で何らかの態度を使い分けているのだろう。

職業病だろうか?ものを教えている内にアドバイスをするクセが付いてしまったのだろうか?

ああしたらいい、こうしたらいい、ばかりでは面白くはない。

よく相手の話を否定して話を始める人がいるが、あれと大差ない。

指導してやろうとか、治してやろうとか、教えてやろうとかいう気持ちで、友達と会話はしたくない。

そう思い、メールを書き直した。


普段、会話の内容を分析したりはしなくて、ただ思った事を言っているつもりだ。

けれど、そこに固着した態度のようなものが在ると、あまり会話は面白くはないと思う。
話題に興味があればまだいいけど、話題への好奇心と会話の楽しみとは違う。

ずーっと上から目線でアドバイスするだけ、自慢話するだけ、否定するだけ、質問するだけ、相槌を打つだけ、ではお互いに会話に退屈するに決まっている。
話題への好奇心がなければもう最悪である。

どちらが悪いとかではなくて、態度が固着化しやすい相性というものがあるのだろう。
二人ともその役割が好きで受け入れているのならそれはそれで問題ないのだろうけど、自分はあまり楽しい会話だったとは思わない。

話をするだけのことを、難しく考え過ぎなのかな。
そうだと思ったらそうだと自分の言葉で言い直して、違うと思ったら自分はこう思うと言えば良いだけのような気もする。

うーん、錯綜してきた。
たまには分析も必要、くらいの結論が落としどころ、だろうか。

使命と良心

昨日の晩は風邪がぶり返して苦しかった。
むしろ今までのは風邪気味程度で、これが本番だという感じだった。

気持ちが悪くなって夕飯を全部戻してしまって、布団の横に洗面器とタオル、お茶を用意したら気持ちが楽になった。

一人暮らしで風邪をひくと凄く心細い。
これは経験した人でなければ分からないものの一つだと思う。

薬を飲むのは嫌だったが、あまりに苦しいので葛根湯を飲んだらかなり楽になった。
何故か葛根湯を飲んだ後から屁がたくさん出て、布団の中から異臭がしていた。

一人暮らしを始めて10年になる。心細いと思うことは殆どない。
人生のおよそ3分の1ということになる。
これがどう増減するのか今のところ分からない。



毎日色んなことを考えるけど、特に何もしていない。そのことに少し引け目がある。
思い返せば、大学のサークルでもあまり中心になってやったりはしなかった。
一番部室に入り浸ってたのに。

活動、というのが嫌いなのだと思う。
自分で計画して準備して人を招いて、というのは好きだけど、こういう事を皆でしましょう、となると
ヒエラルキーの臭いがしてきて、上にも下にも立ちたくはなくて、シラケてしまう。
まぁそれでもモブとして楽しくやるんだけど。

人の上に立つ、なんてやりたくない。
でも何もせずに口だけ出すのもやりたくはない。

人の上に立とうとしなかったことのツケを払わなければならないかも知れない。それも嫌だなあ。



今日の昼に考えていたこと。
自分のやるべき事がハッキリしたら、人生は相当楽になるだろうな、と思った。
やるべき事というか、自分の求めているものと言うべきか。
自分と他人を比較したり、自分は何てダメなんだと落ち込んだり、どこまでも「自分」のことばかり考えて、不安になって…というのは、大抵自分の求めているものを知らないからだ。

就活らしきイベントに参加してた頃、誘われて訪問した会社の社員がやたらと「使命」という言葉を使っていたのを思い返す。

その会社はとんでもないブラックで、離職率がバカ高いという情報がネットでは流れていた。


会社で働くことが「使命」だなんて、嘘っぱちだと思う。
「その会社は本当に世の中を良くしているのだろうか?」
という自分の良心に基づいた批判的な視座がなければ、せっかくの「使命」も根っこのない、何でも入れられるガラクタ箱みたいなものになってしまう。

そして、普通会社と呼ばれる場所で働いていれば、良心に反する事をいくらでもしなければならなくなる。

そもそも「世の為人の為」だって、嘘だと思う。
「使命」なんてものがあるとすればそれは個人的なもので、それが追求された結果、他人の役に立ったり、感動を与えたりするのではないか。

世の中や人様を治そうだとか、修正しようだとか、そういう志はちょっと暑苦しい。
「世の為人の為」に人間をガス室に送り込むことを使命とした人々のことを忘れてはいけない。
何とも頼りない、個人的な良心だけがそれを阻止する力を持っている。

少し説教臭くなってしまった。

もう6年以上経つけれど、あの社員さん、まだあの会社で勤めてるんだろうか。少しだけ気になる。

就活と仕事

今日も晴れ。夏の太陽を仄かに感じるような日射し。

隣の婆さまに庭で紅茶をご馳走になった。
ロクに仕事もしていないので少し心苦しい。


今日はもう日付が変わったので3月ということになる。

ツイッタを見ていると「就活」の文字が目に入る。

しかし自分は就活と呼べるほどの「活動」を殆どしなかったので、何だかよく分からない。
馴染みのないもの、というイメージがある。

結局就活は殆どしなかった。エントリーシートというのは一枚だけ書いた。面接は受けずにスルーした。
やるべきかどうかもあまり悩んだりしなかった。全く面白いと思わなかったのでやめてしまった。

仕事を始めるのに、何故仕事ではない活動を先にしなければならないのか、全く分からなかった。

自分の「仕事」のイメージはあまりにプリミティブなものだったな、と今なら思うけど。

自分自身仕事は好きだけど、仕事以外の事を仕事であるかのようにやらされるのが嫌だった。

世の中では自分が仕事だとは全く思わないような慣習や作法に「仕事」という名前が付いているのだと気付くのに、何年もかかった。

仕事の為の「仕事」があって、むしろそういうことの方を仕事と呼んでいる、会社という組織には全く合わないので、やっても詮無きことだっただろう。


仕事でも就活でも趣味でも、「無理をしない」ということに尽きると僕は思う。
それぞれに別々のルールがある訳ではない。
むしろルールを作るのは自分自身なのだと思う。
どれも自分の人生の内にあるものなのだから。

無理をする、というのは自分のルールを破ることでもある。
それは決して人生を豊かにはしない。

そして無理をしなくても、生き延びて人生を豊かにする術は幾らでもある。

むしろ、これからはそういう世界を作っていかなければならないと思うのです。

敬意とは何か

今日は天気が良かった。体調も良好。布団のシーツを全て洗って干した。

昼間木刀を降っていたら、隣に住むおばあさんが出てきて半時間くらい話した。

おばあさんは戦前の生まれで、とても立派な人である。


立派な人と話をしていると、自然に敬意というものが自身から出てくるのを感じる。

敬意が出て来ない時、相手があまり立派な人ではないこともあるし、自分が疲れ過ぎている、ということも有りうる。

人間は捻くれて、拗らせている人にはあまり敬意を持てないものだ。

また、自分が心身ともに疲労困憊した状態では、敬意が出てこないということはある。
こういう時は人には会わずに眠ったほうがいい。

どちらにせよ、その時どきに敬意の持てない人とはあまり関わってもよいことはないだろうと思う。
敬意を持たなくてはならない、と思っても、敬意とは鉄砲のタマのようにこめることはできないものだ。


敬意とは何なのだろうか。
それは、お互いに善意を信じている人間の間でやり取りされる何かだ。

子どもに対する敬意というのは、その子が未来を担い良くしてゆく立派な人になる可能性に対しての敬意であろうと思われる。

人間は過去の実績に敬意を払うのではなく、現在そして未来を見て敬意を自然に持つのだろう。

敬意が自然に湧いてくるような状態を保つことが、心の鍛錬と呼ぶに相応しい、意味のあることだと思う。

薄氷の上で

今日の体調はそこそこ。
洗濯も自炊もできたのは久しぶりなんではないか。

3時ごろに温泉に行った。
途中色々なことを思って涙が出てきた。

バイクなので涙はすぐに流れて乾いてしまうので都合が良かった。
擦らなければ跡には残らないし、元から眼は充血していることが多いので変わらない。


人生において疑いなくこれは本当だと思うことが一つ二つと出来てきた。
他人の誰が何と言おうと揺るがしてはいけないことだ。

ひとつは「無理をしてはいけない」ということ。

もうひとつは「どんな人も薄氷の上を歩いていて、少し不運が続くだけで誰でも転落する」ということ。

後者がわかっているから、人は人に優しくなれるのだと思う。


過去を振り返ると、色んな人が「転落」していった。

小学生の頃、少し仲の良かった子は4年生くらいから学校に来なくなった。

中学生の頃、何人かの子が学校に馴染めなくてやめていった。

彼らは周りからは努力不足、我慢不足、やる気がないと呆れられ、馬鹿にされ、去っていった。

彼らは悪くはなかった。
ほんの少しの不運で友達が出来なかったとか、嫌なことがあったとか、単純に体調が悪かったとか、そういうちょっとした不運が続いただけだったのだろう。

私は心のどこかでうっすらと「次は自分の番かも知れない」と思っていた。

高校でも、大学でも、働いてからも、多くの人が「転落」していった。
周りとソリが合わなくなり、去らなくてはならなくなった。
それはどうでもいい場所のこともあれば、自分の最も大切な場所であったこともあっただろう。


人生では誰もが薄氷の上を歩いていて、ふとした偶然で転落してゆく。

ここを出発点として色んな態度や認識が自然に導かれる。

不運な人には優しくする。
不運な時にも優しくしてくれた人がいる。
少しずつでも前に進めばまた良くなる。
自己責任論は間違っている。
人に好かれるためではなく喜ばせるためにやる。
…等々。


やっと長いトンネルの中で、一点の光が見えてきた気がする。

理解しやすい人

今日は久々に外に出た気がした。いや毎日何かしら外出はしているのだが、「外に出た」という気はしなかった。心理的なものだと思う。

夜型になってしまったので、朝方に戻すために起きていようと思ったのだが、気付いたら眠っていて起きたら2時過ぎだった。

気温も上がってきているし、釣りにでも行くかーと思い、夕方から釣りにいった。

1時間ほど竿を出してみたが何も食わなかった。
糸にとろろ昆布みたいな海藻がよく付いてくる。
これのせいで魚が居なくなってしまったのだろうか。
これが無くなった頃にまた釣れ出すかも知れない。


帰って来て風呂に行き、晩ごはんにハンバーグを買ってきて焼いたら、ヘンな匂いがする。どうやらタレ付き焼肉の牛肉を使っているらしい。タレの独特な匂いがする。

食べたら暫くして背中が猛烈に痛くなってきて、20分ほど苦しんだ。やはり鮮度が良くなかったらしい。胃袋が拒絶したのであろう。でもなんとか消化してくれた。


風呂の帰りにバイクを運転しながら考えていた事がある。
他人のことを理解する、と言う。この一言だけでもその内実は色々ややこしい。

個人的な実感としては20代半ば、大学を出た頃から他人を理解することはどんどん難しくなった。

これはあくまでも実感であって、実際は他人を理解する必要がなかっただけ、という可能性が高い。

まわりの大学生は自分と出自も似ているし、合わない人間とは付き合う必要はないし、生活に余裕もあるのでお互いの矢印が相手の方に向きやすいのだ。

大学を出ると、全てが逆転する。
出自の異なる人々と、合わなくても付き合いがあって、余裕がなくお互いに矢印が自分に向いている状態で、他人を理解する。

こんなこと、そもそも無理なのである。
そしてわたしは他人を理解することにほとほと疲れてしまった。
暫くお休みしたいのだ。

しかし、あることに気がついた。
他人から見て、理解しやすい人間であれば、まだ理解することをお休みしていても、まだ付き合いやすいのではないか?と。

理解しやすい人とはどんな人々だろうか。
会社員、投資家、学生、左翼、善人…など
分かりやすいラベルを持っている人だろうか。
いや、ラベルでは中身は何も分からない。

簡単なことだ。
理解しやすい人であるには、ただ正直でありさえすればよいのだと思う。