げじげじ日記

私の世界

風邪

昨日から風邪をひいている。
熱っぽく、頭が重たい。
風邪をひくのはおそらく3年か4年ぶりだろう。

長らく風邪をひかなかったのは、体力がなかったからだと思う。

風邪は精神に余裕のある時でなければひけない。

これは本当のことだ。
精神がギリギリの状態では、体調不良は起こらない。
脳みそが身体全体を騙してしまうのである。

少し心に余裕が出てきた、ということであろうか。


晩御飯を食べた後に8時間ぶっ通しでゲームをしたら、妙に悲しくなってきた。

頭がぼーっとする。
風邪の感覚は分からなくなった。
体調が良くなったというより、体調が知覚できなくなった。

こうやって毎日のように日記を書いていても、心の中は空っぽで、何一つ言いたいことなどない。

目の前にある物体をただ記述しているような感覚だ。
特別言っても言わなくても良いようなこと。 

本当は何もかもどうでもいいのだ。
自暴自棄の状態が長く続いている。

どうしてこうなったのかよく分からない。
無理をし過ぎたのだろうか。
やりたくはないけれど、断りづらくて、やり続けてしまったからだろうか。

何一つ光明が見えないまま、今日も眠る。

雨の中の涙のように

今日は暖かい日だった。

温泉に行こうかと思ったら雨が降ってきたので、やめて眠ることにした。


布団の中でゴロゴロしながら、大学生だった頃を思い返していた。

殆ど退屈していた印象しかないのだが、よくよく考えると色んなことがあった。

一度だけしか話さなかったような同級生、喧嘩別れした友人、自然消滅した彼女、就職して見なくなった先輩、色々やったアルバイト…

そしてその後の2年間の貧乏生活。

全て川の水のように流れ去って遠くにいってしまった。

あれは夢だったのではないか?と今まさに目覚めたかのように思う。

良い思い出も嫌な思い出も、起こったことも結局起こらなかったことも、全ては夢であったように感ずる。

これが過去との決別というものなのだろうか。
妙にあっさりとしている。

過去の嫌な記憶でぐわわーっ!となっている時には、過去の記憶はまさにここにあって現実のように感ずる。

だが実際には夢のようなものなのかも知れない。

そしていずれ消えてゆく。雨の中の、涙のように。

痛み

昨日から背中が痛い。今日は仕事も休んで殆ど寝ていた。


無理をしない、と心に決めたはいいが、だからといって痛みが無くなるわけではない。

無理をすれば必ず苦しいし痛みもあるが、無理をしなくても痛みはある。

どうしようと痛みがなくなることはない。生きている限りは。

頭はほとんど働かないし何も考えることが出来ない。

ツイッタなどを眺めていても行われている議論に全くついてゆけない。

痛みばかりに気を取られていて、世界を理解しようという意思が失せてしまった。


この世界を流れてゆく言葉は嘘ばかりで、まことの言葉がどこにもない、と感ずる。

ある言葉を読んだ場合も自分で見出した場合も、「本当だ」と感じられることがない。

常に近似的で、捉えきれていない、という感がある。

自分の感情や心の細かな動きも全く捉えられない。

今まで捉えてきたものは殆ど「ニセモノ」であったと感ずる。


そもそも、本当に感じている事を言うと周りの人々が皆寄ってたかって怒り出すのがよくない。

怒られないように、望ましいことを感じているように振る舞ったり、感じてもいない感情を鉄砲の弾のようにこめて振る舞ったり。

こんなことばかりしていては病気にもなる。

無理をしてはいけない

昨日運動をしたからか、1日中だるかったのでほとんど寝ていた。


昨日読んでいた「透明な力」の中の「無理をしてはいけない」「無理をせずにやれるようになることが鍛錬である」という言葉がずっと頭に残っている。

かつて、自分は無理をしてしまった。
やりたくないことを、無理をしてやってしまった。

いや、もはや途中からは「無理をしている」という自覚さえもなかった。

やってくるタスクをただ必死で一人でこなしていた。

無理をして当たり前になっていた。

いつしか無理をしなくては今まで出来ていたこともできなくなっていた。

無理をして、気持ちの上では120%の力を出しているつもりなのに、実際には期待される半分の力も出ない。

そして周りの人々の期待を裏切ることとなった。

無理をしてはいけない。
絶対に無理をしてはいけない。

雑感

今日は色々思うことの多い日だった。

最近はツイッタを見てもネットのニュースを見ても、そこからはあまりものを考えなくなった。

煽動的な話題が多すぎるし、そういうものからは距離を置くようになった。

「そうなのか」でおしまい、にしている。
自分には他に考えるべきことがある。


思うところがあって、英語のペーパーバックをアマゾンで買って読み進めている。

辞書を使わないで読んでいるから、全く分からない単語が沢山ある。
向こうでは児童書に分類されるようなものらしいが、単語が分からないので何を言っているのか分からない。

取り敢えず10ページほどを一週間かけて読んだが話の流れが分からない。何が起こっているのか分からない。

そこで今日はもう一度初めから読んでみたら、何故か今度は少しは分かるようになっていた。

文書にはリズムがあって、だいたい何について書いているのか、が分かってくる。

具体的には単語の意味よりも先に、情景が思い浮かんできて、
それから使われている単語が大体どういう意味なのかが分かってくるのだ。

ふつう英語の学習は単語から文章を読み取ることだと思われているが、それは誤りなのかも知れない。


久しぶりに「透明な力」を読んだ。
この本は稀に見る生命の感じられる書物だと思う。

一年前に怪我をして、合気道は止めてしまったが、久しぶりに鍛錬をしてみた。

少し身体を動かすだけでも気分が澄んでゆくのを感じる。

運動というのは人間の心にとってかなり大切なものだと分かった。
身体が弱れば気力も弱る、ということだろうか。


明るく振る舞う、ということについて考えた。

以前自分がいた所では、明るく振る舞っていた。

しかしそれは長くは続かなかった。

明るさを自分の武器というか、周りへの貢献のために用いていたように思う。

それ以外の働きはとくに見せなかった。

そして明るさはやがて消えていった。

自分をロウソクに例えてみれば何が起こったのかよく分かる。

ほんのりと、暗闇の中でゆらゆらと燃え続けるロウソク。
それが自分のほんとうの明るさだったのではなかろうか。

それなのに無茶をして、電灯の光でも出すかのように明るく振る舞って、ロウソクを凄い勢いで燃やしてしまった。

明るく振る舞うことなど、必要なかった。
ただロウソクのようにうっすらと燃えていればよかった。

特に今のような暗闇の中では。

落ち着き

今日は取り立てて何もなかった。

競馬をするにも競馬用の口座に金が入っていない。
土曜日で全て使ってしまった。

7時に目が覚めたのだが、あまり眠った気がしなくて、結局昼過ぎまで寝ながらたまに眠ったりしていた。


2時を過ぎてから山の温泉に行こうと思いバイクに乗った。外は寒かった。天気は良い。

山道を登ってゆくと、雪ががっつり積もっていて、タイヤが空転してしまい、登れなかった。

諦めて山を降りた。途中でバイクを停めて、山の中に入ってみた。

水の流れ落ちる音が聴こえるので、そちらへ雪を踏みしめ、杉の中を足元を確かめながら歩いていった。

川があって、大きな岩がゴロゴロと転がっている。
その後ろには苔むした緑色の石垣が4メートルほど積み上がっている。

おそらく昔よく使われていた川なのだろう。
何年もかかって大勢の人が石垣を積んだのだろう。
遺跡のようだ。

懐かしい、と思った。


更に色々と寄り道をして、風呂に行って帰ったら6時に近かった。


ものやひとに触れることができないでいる。
見ているようで、ぼやけている。
表面をなぞってさえもいない。

落ち着いて、ものに触れる。ひとに触れる。
何と難しいものだろう。

これさえ出来れば大体の個人的なことは解決するように思われる。

「やりきれなさ」はどこへいったのか

久しぶりに日記を書く。
最近は気分が好転してきている。

将来への不安や過去嫌な思い出の反芻がなくなった。それらを直ぐにやめることが出来るようになった。

「つまらない」と感じるようになった。
今やっていることに注意を払うようになった。

すると、退屈してきた。
今までは不安になったり、過去の思い出を思い返して腹を立てたりしていたので、退屈しなかった。
単に飽きた、ということなのかも知れない。


他人の死や別れに対する感情が昔と今とでは異なっている気がする。
また、似たような所で物語の終わりに対する感情も変化してきた。

昔は漫画など読むと、終わりが近づくにつれて、何ともやりきれない気持ちになったものだ。
また、別れのシーンなどでも同様にやりきれない、悲しい気持ちになった。

その先がなくなる、ということに「やりきれなさ」を感じていたのだろうと思う。
永遠に続いて欲しい、という願いに対抗して、死があり、別れがあり、物語の終わりがある。

永遠というものを信じたいからこそ、やりきれない悲しみが襲ってくるのだ。

今はどうか。
こうした「やりきれなさ」は20代のどこかで投げ捨ててしまった。

今はこうだ。
何事にも永遠というものはない。人はいつかは死ぬ。人と人は別れる。物語は終わる。
これら全ては偶然の産物である。

だが、思い返すと、「やりきれなさ」を失ったら、心の底に「あきらめ切った」感情がすーっと音もなく入ってきた。

「あきらめる」というのは美徳の一つで、いつまでも何かに拘泥して苦しんでいる人にとっては大事な
心の動きである。

だが、あきらめ切ったら、その先には虚無しかない。


やはり人は永遠を信じていなければ満たされて生きることはできないのではないかと思う。